松本清張の作品には、しばしば新聞記者が登場する。ただし、その描かれ方は、案外と辛辣で、「社会の木鐸(ぼくたく)」としての役割を果たすような作品は、すこぶる少ない。例外は、「投影」くらいであろうか。ただし、その記者の所属する新聞社は、週刊の二枚折のタブロイド版の地方紙の発行元にすぎない。床に伏せっている社長と、どこかとぼけた味のある記者とが、たった二人で発行している。
そこに、東京の大新聞を、上司と喧嘩して辞めた主人公が、もう一人の記者として雇われることになる。
この地方紙は、「常に正義をもって市政悪と闘う」ことを標榜しており、事実、その通りの新聞なのだが、それゆえに市役所では、役人たちから、いつも小馬鹿にされた応対をされ、大新聞の支局などで構成される「市政記者倶楽部」にも入れてもらえない。
この小説では、主人公たちが、市政の腐敗と、それに伴う殺人事件の真相を明らかにすることになる。
その末尾は、主人公が、元の大新聞の傍系の民間放送会社に就職するため、再び東京に戻るところで閉じられている。「僕はこの土地に来て、社長によってはじめて新聞記者の正道というものに目を開けてもらった思いです」――これが、主人公の別れの言葉になる。
「新聞記者の正道」こそが、「社会の木鐸」としての役割を意味することは、いうまでもない。
だが、この「投影」を除いては、清張の目は新聞記者、とりわけ大新聞の記者に厳しい。常に立身と保身とに走る輩が多いというのである。ここには、清張の小倉時代の体験、朝日新聞社で経験した思いが投影されているのかもしれないが、これを掘り下げると、そこにはもっと重大な問題が隠されているように思われる。
ここまで、新聞記者と記して来たが、言い換えれば、その集合体としての新聞社になる。その場合、立身は意味をなさないが、新聞社、とりわけ大新聞と称される新聞社は、ことごとく保身を旨としている。新聞社にとって、不都合となりかねないことには、一切触れようとしない。
ここからは、先のブログ「全体主義国家・日本」と重なるところもあるが、そもそも新聞は、端(はな)から体制への翼賛の役割しか果たして来なかった。それは、いまも変わらない。どう見ても、「全体主義国家・日本」のお先棒を担いでいるとしか思えない。
これも、前のブログ「一言主神」に記したことだが、「朝日新聞」など、よく恥ずかしくもなく、コラムに「天声人語」なる標題を掲げているものだと思う。
ここに述べたことは、決して針小棒大ではない。これはむしろ、新聞社というより、マスメディア全体といったほうがいいが、ジャニーズ事務所の性加害問題の報道の流れを見ても、そのことがよくわかる。1970年代から、この事件は知られていたにもかかわらず、一部週刊誌を除いて、これを正面から取り上げたマスメディアはまったく存在しなかった。すべて、芸能界を支配するジャニーズ事務所への「忖度」の結果にほかならない。この件に関して、マスメディアの誰かが責任を取ったという話は、どこからも聞こえてこない。
こうした「忖度」は、右の件だけではない。いまやすべてに及んでいるように思われる。あらゆるところに「忖度」は現れている。
「朝日新聞」など、大昔の内紛(創業家である村山家との抗争に端を発する)の際、無言を貫き通したことを思えば、他を批判できるはずもないことは、明らかであるともいえるのだが。高校野球のおかしなありかた(高野連)を批判できないのも同断である。
「文春砲」の炸裂に任せるというだけでは、あまりにも情けない。ヨタ記事が多いことを、誰もが認識している「東京スポーツ(東スポ)」の方が、勝手なことが書けるだけに、稀ではあるが、核心を突いている場合があることを、どこかで肝に銘じておくべきだろう。そのありかたは、清張の「投影」の地方紙に、ひょっとすると重なるところがあるのかもしれない。