雑感

新聞の行方

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この二年半、ほとんど外に出ない生活を送っている。
家にばかりいると、頭の呆(ぼ)けが進む。このところ、何度も、新聞の夕刊を取り込むのを忘れている。翌朝、朝刊を取りに行って、夕刊がそのままであったことに気づく。
夕刊を取り忘れるのは、呆けのせいではあるのだが、あらためて考えると、その理由の一端は、昨今の夕刊の紙面にあるのではないかと思う。

新聞は、いまや速報性をまったく失ってしまった。新聞(NEWSPAPER)の伝える記事は、少しもNEWSではない。それゆえ、その紙面も報道性を重視せず、解説的な記事ばかりになっているのだろう。
朝刊はまだしもといえるが、夕刊の紙面はかなりひどい。どうでもいいような記事しか見られない。
わが家の場合、夕刊は、午後三時前後に配達される。二時半くらいのこともある。これでは、夕刊ではなく、昼刊である。以前は、もっと遅い時間だった。夕刊は、報道ということを、いまやまったく放棄しているのだろう。読み物として読んで下さい、ということなのかもしれない。

まだしもとは書いたが、実のところ、朝刊もまた、そうした方向に近づきつつある。
記事の書き手、新聞記者ということになるが、その能力の劣化も著しい。内容もひどいが、文章もひどい。いずれ、新聞という媒体は、消え去ることになるのだろう。

新聞があてにならないので、私の場合、ニュースと呼ばれる情報は、基本的には、インターネットに頼っている。もっとも、偏向も少なくないから、その内容を、そのまま鵜呑みにはできない。テレビのニュースも見たりはするが、速報性という点では、インターネットに及ばない。テレビの場合も、偏向は見られるから、どちらにしても、用心が肝要である。

若い世代では、新聞を読まない者が増えているという。情報は、すべてスマホを通じて得ているらしいから、新聞などはたしかに不要だろう。
速報性を失い、記事としても魅力の失せた新聞を、いつまで購読し続けるかはわからない。新聞を読むのが当たり前であった過去の習慣を、いまや惰性で続けているに過ぎないからである。もっとも、私の場合、紙の安心感というのはどこかにあって、信濃追分に行くと、「信濃毎日」を買ったりしている。地方紙のおもしろさというのもある。紙の安心感も、下の世代とは、どこかで断絶があるに違いないから、新聞の行方はやはり厳しい。

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