雑感

日本とドイツ・大河内一男

投稿日:

もう20年以前のことになるが、1999年3月から2000年1月までの十か月間、文部省の長期在外研究員として、ドイツのルール大学(デュッセルドルフの近傍、ボッフムに所在)のお世話になったことがある。

1969年に締結された、東京大学とルール大学の大学間協定によるもので、当時、東京大学の教員の派遣枠が一名分、文部省から特別に割り当てられていた。その一名分を、駒場と文学部とで毎年交互に分け合うことになっていた。派遣されるのは、駒場も文学部も、日本関係の分野の教員が優先された。

その特別な割り当てに対する風当たりが、大学内部でつよくなり、私の派遣を最後に打ち切りということになった。在外研究員の希望者は、どの学部にも数多くいるのに、なぜこの一枠だけが別枠となっているのか、という不満が大きくなったためである。大学が法人化されたいまとなっては、単なる昔語りに過ぎないのだが、たまたま当時の資料を読み直したところ、書き留めておくべき、歴史的な意味があると思う箇所があった。それをここに記そうと思う。

ルール大学への派遣は私で最後になるのだが、大学間協定が結ばれて30年目の節目にあたるので、ルール大学の主催で、「文化交流と相互理解の可能性と限界」と題する、記念のシンポジウムが開かれた。
そのシンポジウムの冒頭、ルール大学のRegine Mathias教授(日本近代史、社会史)が「30年間のパートナーシップ」と題する報告をおこなったが、あらためて読み直すと、大いに考えさせられる。私も知らずにいた、交流協定の背後にある事情が述べられているからである。

この交流協定締結の立役者は、東京大学総長であった大河内一男である。その大河内の意図が、なかなか興味深い。大河内の専攻分野は、経済学、社会政策だが、その基盤にあるのは、ドイツ経済学である。それゆえ、大河内はドイツ通として知られていた。
その大河内が、東京大学総長として、この交流協定を締結しようとした理由は、どうやら、その世界情勢の認識にあったらしい。大河内は、戦後の世界、アメリカ、ソ連を中心に、二極に分裂した世界、東西冷戦の世界の中で、日本がどのような立ち位置にあるべきかを、模索しようとしたらしい。その上で、アメリカ一辺倒ではなく、ヨーロッパ、とりわけドイツ(当時は西ドイツだが)との連携を強化すべきだと考えたらしい。なぜドイツなのかは、大河内の専攻分野との関係もあるが、それ以上に、戦後の復興を成し遂げた、同じ敗戦国同士の、その歴史的な共通性をつよく意識したからであった。

Mathias教授は、当時の新聞、Westfälische Rundschau 新聞、1969年10月7日付の、大河内の談話「両国(日本とドイツ)は、アメリカ合衆国やソ連の言いなりにならず、いくつかの問題に共に取り組むべきである。我々は独自の道を見つけるべきなのだ」を引用しつつ、「大河内教授は、……アメリカ合衆国に対する日本の一方的な依存状態との釣り合いを取るため、意識的にヨーロッパとの関係を強化しようと考えていたようです」とまとめている。

交流協定締結の背後に、右のような大河内の認識があったとするなら、それは充分記憶に留めてよいことのように思う。毎年、わずか一名の、それも日本関係の分野を中心とする教員の派遣が、どれほどの意味をもったかはわからないが、大河内が文部省に直接掛け合い、この交流のために、在外研究員の枠を、一枠とはいえ、特別に確保できたということは、その認識に、一定の支持があったことを示している。

それにしても、大河内のこの認識は、あらためて評価されてよいのではあるまいか。その後の世界は、ソ連の崩壊という大きな歴史的な転換を迎えることになるが、大河内の危惧した「アメリカ合衆国に対する日本の一方的な依存状態」は、変わることなく、いまも維持され続けている。日本は、ほとんどアメリカの植民地と同様である。前のブログにも書いたことだが、日米地位協定のような不平等な取り決めは、到底、独立国家のものとはいえない。国辱ものである。「コリーニ事件・続」に記したことにもつながるので、関心をお持ちの向きは、そこを参照していただきたい。

アメリカとの連携はたしかに大事ではあるが、ヨーロッパ、あるいは中国、ロシアなどとの関係をうまく利用することで(巧みな外交術が必要だが)、別の違った道を選ぶことができるように思えるのだが、どうだろうか。そうした器量をもつ政治家はいないのだろうか。実に不思議である。

そんなことで、古い資料を整理している中で見つけた記事内容を紹介してみた。

以下、余計な感想。大河内一男は、東大闘争の渦中で退陣したが、それにしても、昔の東大総長には、確かな見識があったことがわかる。文部行政にいちゃもん一つ付けられない、昨今の能吏タイプの総長とは、ずいぶんと違っていた。その当否は別としても、時の総理大臣から「曲学阿世の徒」と、直接に批判されるような主張を述べた総長もいた。その主張が無視できないからこそ、総理大臣は名指しで批判したのだろう。これも、今は昔なのかもしれない。

-雑感

Copyright© 多田一臣のブログ , 2025 AllRights Reserved.