三代目三遊亭金馬の落語「長屋の花見」を、久しぶりに聴いた。突然、大家(おおや)に呼び出された店子連(たなこれん)が、その理由をあれこれ推測する場面がある。溜(た)まった店賃(たなちん)の催促だろう、というのは穏当な方で、中には大家が飼っていた猫を食べてしまったのがばれたに違いない、という者まで現れる。猫を丸太で撲(ぶ)ちのめし、皮を剥(は)いで、何人かで煮て食べ、剥いだ皮は、あとで羅宇屋(らうや)の爺さんの外套の襟になったという。
動物愛護が過剰なほどにやかましい昨今なら、いくら落語であっても、絶対に許されないやりとりであるに違いない。テレビ、ラジオならたちまち放送禁止だろう。調べてみると、昭和32年の録音とある。
観客もいるのだが、この場面では、みな大声で笑っている。心からの笑いで、違和感などどこにもない。そこが実に興味深い。
そこで、思い起こしたのが、北條民雄(ほうじょう・たみお)の『猫料理』である。
北條民雄は、癩病(らいびょう)(いまはハンセン病という。癩患者への差別を避ける意図があって付された名だが、ここでは癩を用いる)で、昭和9年、癩療養施設である多摩全生園(たまぜんしょうえん)に入所、昭和12年12月、重度の腸結核で亡くなっている。本名も明らかにされてはいるが、文学史の上では、作家・北條民雄でなければならないだろう。
北條民雄は、川端康成の推挽で、文壇に出ることが出来た。川端に送った手紙が契機になったようだが、それ以降、川端に師事することを許され、川端が導き手となって、いくつかの作品が、『文学界』『中央公論』『文藝春秋』などに掲載されている。
作品としてもっともよく知られているのが『いのちの初夜』だが、これを書名とする短編集も、生前、創元社から刊行されている。これも川端の尽力による。
北條の死の翌々年、創元社から、やはり川端の編で、『北條民雄全集』上・下二巻が刊行されている。川端の上巻(下巻)編纂の辞のほか、全生園での文学仲間であった三名の追悼記が付されている。その中の一人、光岡良二は後に、北條の評伝ともいうべき『いのちの火影』(新潮社)を刊行している。
『猫料理』は、『文学界』昭和11年4月号に掲載された随筆風の作品で、創元社版全集では、下巻に「随筆」の一編として収められている。
全生園の鶏舎をしばしば荒らしにやって来る丸々と太った斑(ぶち)の野良猫を、ばったんと呼ばれる仕掛け(餌に飛びついた猫を、大石の載った厚板を上から落として押しつぶす仕掛け)で捕らえ、ぺしゃんこになった胴体の皮を剥いで、何人かの同病者とともに、その肉を鍋で煮て食べる話である。
ただし、ここには、深い哲学的省察が見られる。猫を食べることの意味、時に不気味、時に滑稽でありつつも、その奥に潜む虚無が、おのれの病の実相ととともに、正面から見据えられており、文芸としての達成度には、正直、驚かされる。
全生園では、どうやら以前からも、猫は食べられていたらしい。その背後には、猫を食べることで、癩が治るかもしれないという、はかない期待もあったのではないか、とも綴られている。
「鶏を常食にしてゐた奴だ、まづい譯(わけ)があるものか。」
「癩病になつたばかりに、猫も食(く)へるし。」
など、自嘲のようではあるが、その底には苦い思いが澱(おり)のように沈んでいるのがわかる。
猫の肉は、兎の肉のようでもあり、歯切れがよくて、脂が少なく、歯の少ない老人にも向くとある。「猫料理は今後大いに社會人の間にも行はれて良いものだと思ふ」というのが結びになる。皮肉でも、ブラック・ユーモアでもなく、その奥にある北條の冷徹なまなざしを、見るべきだろう。
私は、猫は食べたことはないが、犬ならある。ずいぶん以前、韓国で教え子に案内された料理屋で、犬の鍋を食べた。特別な意識を覚えることもなく、ごくふつうに味わって食べた。もっとも、牛の方がずっとおいしい。赤犬の味がいいなどと、これも落語か何かで聴いた覚えがある。犬を食べる文化は、日本にもあったのだろう。猫も食べられていたのかもしれない。
動物愛護を言い立てるなら、牛や豚や馬や鶏を食べるのもおかしなことになる。
ここで、宮沢賢治の『ビヂテリアン大祭』の議論を思い出したが、長くなるからいまは触れないでおく。