『日本文学』(日本文学協会発行)という雑誌がある。その2021年4月号の「子午線」という2頁ほどのコラムに、「学術会議会員任命拒否問題から考えたこと」と題する小文を載せてもらった。任命拒否が不当であるのは当然のことなのだが、その小文では、そうした状況を作りだした根本の責任は、むしろ私たち国民の側にあるのではないかということを、民主主義の危機という観点から述べた。小泉、安倍、そしていまの菅の政権が掲げる新自由主義(ネオリベラリズム)に対して、総選挙において国民が圧倒的な支持を与え続けたことこそが、すべての元凶であり、それこそが民主主義の危機につながっているのではないか、ということをそこで述べた。いまのコロナ禍への愚劣な対応も、つまるところそこに帰着する。保健所減らし(私の住む世田谷区では三つあった保健所がいまは一つになったとか)、医療態勢の脆弱化(国立病院の統合等)など、いずれも新自由主義の流れの中で推し進められた政策がもたらした悪しき結果にほかならない。いちばん深刻なのは非正規雇用の拡大によって、社会の格差が著しくなったことだが、それにもかかわらず、国民はその政策に支持を与え続けてきた。それというのも、国民は理性ではなく気分で動くものだからである(小泉政権の郵政民営化を争点とした選挙では、「抵抗勢力」という殺し文句に国民が踊らされたことを思えばよい)。本当の民主主義とは、一人一人の個人が社会に対して応分の責任(ないし義務)を負うところに基本をもつ。ところが、昨今は、権利と称して個人の欲望だけを優先するような主張ばかりが目につく。わずかであっても、責任(ないし義務)を押しつけられるのはご免だということらしい。それでは社会は維持できない。おそらく、日本の民主主義が、どこか歪んだ形で形成されたところに、こうした状況に立ち到った根源的な理由があるのかもしれない。
そんなことを「子午線」に書いてから、時間があったので、ヒトラーの『わが闘争』を引っ張り出して読み直してみた。ヒトラーがこんなことを考えていたのか、ということがわかって実に興味深かった。それは、次に記す。