雑感

渋沢秀雄のこと

投稿日:2026年2月18日 更新日:

昨日(2月17日)、長島弘明さんや二松学舎大学の大学院の修了生たちに誘われて、王子近辺の文学散歩に出かけた。飛鳥山公園から、飛鳥山博物館、渋沢史料館、紙の博物館、音無親水公園、名主の滝公園、王子稲荷神社などを見て回った。

渋沢史料館は、渋沢栄一の膨大な業績のありようを、その年齢の進みとともに紹介する施設で、ここに足を踏み入れたのは初めてである。その展示を一瞥しただけでも、驚くような超人ぶりがうかがえるのだが、これほど傑出した人物が現れたのも、社会の体制が大きく揺れ動く、そうした時代背景があったからだろう。私自身は、明治維新の負の側面に、むしろ重きを置く立場ではあるが、渋沢のような人物は、やはりこの時代でなければ生まれなかったに違いない。

渋沢栄一は、ごく最近、壱万円札の表を飾る人物に選ばれた。ただし、それを批判する声も一部にあるという。女癖が悪すぎるというのである。なるほど、妻妾が何人もいて、生ませた子の数も、何人であるのか判然としないという。そこで、結婚式の御祝儀に、渋沢の顔が描かれた壱万円札を包むのは避けた方がよい、というような声もあったりするのだという。
とはいえ、こうした女癖の悪さを、現在の視点から批判しても何の意味もなさない。妻妾が複数いたとしても、この時代、渋沢のような精力の持主なら、何の不思議もないことだからである。

私が渋沢栄一に関心をもつのは、その子秀雄、また孫の敬三を通じてである。ところが、渋沢史料館には、秀雄のことも敬三のことも、系図に名があるのみで、他にはほとんど何も記されていない。
敬三の名が現れない理由だが、敬三について詳しく紹介すると、その父であり、栄一によって廃嫡された嫡男篤二について触れざるを得ないからであろう。篤二は、実のところ、かなりの放蕩者であったらしい。その放蕩・無頼は、あまりにも偉大すぎた父の存在が重圧となり、それが反動となって現れた結果であったのかもしれない。
そこで、その篤二の子である敬三が、栄一の後継者になるのだが、敬三は栄一の財界活動を受け継ぐ一方、民俗学に深く傾倒し、エチック・ミュージアムを創始し、さらには常民文化研究所を創設したりもしている(現在は神奈川大学に附置)。私などは、その常民文化研究所の編纂した『絵巻物による日本常民生活絵引』に、いまもずっとお世話になっている。
この敬三の民俗学への傾倒も、ひょっとすると父篤二が放蕩に奔ったのと同様、栄一の偉大さへの反動のなせるわざだったのではないか、などと思ったりもする。

そこで、標題に掲げた渋沢秀雄である。秀雄は篤二の腹違いの弟になる。やはり財界活動を受け継ぐが、一方で、軽妙洒脱な人柄でもあったためか、芸能の方面にも関心を寄せ、その後半生は、むしろ文化人として、広くその名が知られている。

私が渋沢秀雄という存在を知ったのは、NHKラジオの「とんち教室」によってである。「とんち教室」は、私が小学生時分から、ずっと愛聴していた番組である。アナウンサーの青木一雄が「青木先生」で、石黒敬七、長崎抜天(ばってん)、三味線豊吉、三代目桂三木助、六代目春風亭柳橋などが「生徒」となり、渋沢秀雄もその一人だった。
ここで一つ余計なことを記すと、小田急線下北沢駅の線路際に立てられていた広告板に、沿線のどこか(和泉多摩川あたり?)にあった旅館「ふくだや」の広告が記されており、そこに「ろはひょうたん めどもつきぬ れもよろこぶ すみどこ」と、都々逸調の文言が記されていた。その句頭が「ふくだや」となっていて、感心した覚えがある。中学生時分のことだっただろうか。その作者が石黒敬七だった。

そこで、渋沢秀雄なのだが、昔の雑誌『旅』に「とんち教室」の面々が出席している座談会が掲載された号があり、その内容が実におもしろくて、そこで秀雄の名をあらためて意識した覚えがある。
その『旅』だが、日本交通公社が発行していた、旅とその周辺の文化的な記事を満載した雑誌である。戦後すぐの時期の『旅』は、執筆者に当時の名だたる文化人が集う、きわめてレベルの高い雑誌だった。むしろ総合文芸誌と呼ぶべきかもしれない。ただの旅の雑誌ではない。昭和二〇年代後半の雑誌が、十冊ほど手許に残されているのだが、いま読み返しても、当時、よくこれだけの執筆者を揃えた雑誌が作れたものだと、ほとほと感心する。
その座談会が載ったのは、昭和二五年一月号なのだが、その扉絵を朝倉摂が描いている。さらに中川紀元が「パリのお正月」という題で、絵と文とを寄せている。武井武雄「面の話」も絵と文とからなるが、味わいがあって実におもしろい。茂野幽考「奄美大島」は、奄美大島の民俗や文化、婦人の黥青(いれずみ)の習俗、さらには村落組織のありようなどにも触れるところがあり、当時の記録として、いまも貴重ではないかと思う。菅原通済「釜石線開通式」、前田河広一郎「温泉「角間」――信州はずれの湯小屋で」などというエッセイ風の文章も収められている。「千年もひとむかし」と題する特集には、大賀一郎「芽吹く千年の蓮」、東大寺正倉院の蘭奢待などにも触れた清水藤太郎「古都に香る薬物」といった記事も並ぶ。佐藤垢石の連載「旅の艶福」とか、林二九太「我が最悪の旅」などという、事実とも虚構ともつかぬ話も収められている。別の号になるが、佐藤垢石には「魔味魅香」などという連載もあって、これも実におもしろい。

そこで先の座談会に戻る。出席者は、吉本明光、長崎抜天、井伏鱒二、三味線豊吉に渋沢秀雄。越後湯沢の観光ホテルで、炬燵を囲み、料理を食べながらの座談会である。芸能評論家の吉本、作家の井伏は「とんち教室」の生徒ではないが、この座談会が「とんち教室」を前提にしていることは、冒頭に「青木先生」以下が城ヶ島へ遠足に出かける話が出て来ることからもあきらかである。
話題は、その後スキーに転じ、そこから昆虫や熊、蛇などの珍料理に移り、最後は「食い気ばっかりでも何ですから、何か色どりのあるお話を……」という吉本の勧めに従って、渋沢秀雄が、自身のロンドンでの情事の体験をおもしろおかしく語っている。その内容は、やや下(しも)がかったところもあるので、ここに紹介することはしないが、「お話も落着く所へ落着した」と結ばれているように、話の落ちとしては、なかなか秀逸なものがある。

渋沢秀雄は、ロンドン遊学の経験があるから、その時の実話なのかもしれない。この座談会の記事を読んだのも、私が中学生時分のことだから、こうした色気のある話がよりつよく印象に残ったものとみえる。それで、渋沢栄一よりも先に、渋沢秀雄の名が頭に残ることになったのだろう。当時はだから、秀雄と財界の関係など知るよしもなく、ただただ軽妙洒脱なおじさんだとばかり思っていた。秀雄は、スキーも達者らしく、この座談会でも、そのおもしろさについて語っている。スキーをする際にはパイナップルの缶詰を腰にぶらさげておき、運動して暑くなったら、雪を入れて食べるといいなどと勧めている。ジュースが適度に薄められて実にうまいのだという。そんなことで、ずいぶん経ってから、秀雄が渋沢栄一の子だと知って、驚いたような記憶がある。

今回、渋沢史料館を訪れて、あらためて渋沢秀雄のことを思い起こしたような次第である。
なお、渋沢栄一については、以前のブログで赤報隊について記した際、ちらりとその名を記したことがある。

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