雑感

憎まれ口

投稿日:2025年11月23日 更新日:

以前のブログ「「こどもたち」という言葉」で、高校野球の悪口を書いた。簡単にいえば、高野連と称する団体が、指導者と称する者たちの生活権益を守るための組織と化しており、その構造は、外部に対して閉じられた、独善的なありかたを示しているのではないか、という悪口である。ただ、そこでも述べたように、そうしたありかたは不愉快ではあるものの、私などは所詮部外者に過ぎないから、こうした批判は、結局のところ、たわ言にとどまるしかないとも述べた。

今回述べることは、中学、高校の合唱についての疑問になる。予(あらか)じめ申しておけば、これもまた類似のたわ言になる。
中学、高校の合唱には、合唱コンクールなるものがあり、大学や社会人にも同様な舞台が用意されているらしい。新聞社なども、そうしたコンクールに協賛するなど、積極的な後押しをしており、地域予選、地区大会、都道府県大会、そして全国大会と、ピラミッド型の構造になっている。
ところが、時折、テレビ(Eテレなど)で放映される、そうした合唱コンクールの中継映像を見ても、少しも面白くない。それどころか、むしろ苛立(いらだ)ってくる。

それでは、なぜ苛立ってくるのか。音楽を聴く耳が私にないからではない。このブログでも再々書いているように、私は中学生の頃からクラシック音楽にのめり込み、いまもずっと聴き続けているから、音楽への感性は他人に劣るとは少しも思っていない。だから、合唱コンクールの合唱をつまらないと感じるのは、私の耳が偏頗(へんぱ)だからではないはずである。
そもそも、合唱コンクールで取り上げられる課題曲なるもの、それは多くの場合、日本人の作曲家による新曲であることが多く、例外はあるにしても、音楽の美しさ、合唱の魅力を存分に楽しめるようなものにはなっていない。その課題曲が、コンクールの終了後も、一般の(ここが重要)音楽愛好家に広く受け入れられるようになったというような例は、寡聞にして知らない。なぜ、伝統の厚みに支えられたヨーロッパの合唱曲を取り上げたりはしないのか。宗教曲、オペラの合唱曲をも含めて、いろいろにあるはずである。それらを取り上げない理由がまったくわからない。さらにはその歌い方である。オペラなどの合唱をずっと聴いて来た耳には、ひどく不自然な印象ばかりが残る。

こんなもやもやとした疑問をずっと持ち続けていたのだが、ごく最近、YouTubeを見ていたら、私の抱いた疑問に正面から答えてくれる配信動画があることに気づいた。私の感じ方が少しもおかしくないのだということがわかって、むしろ自信を深めた。
その配信動画とは、車田和寿(くるまだ・かずひさ)氏の「音楽に寄せて」と題する一連の動画の中の「【音楽談話44】過熱するコンクールで不自然な姿に?独自の道を歩む日本(中高生)の合唱についての話。本来あるべき合唱の姿とは?」である。三年前の配信とある。

車田氏の名は、まったく知らなかったのだが、国立音楽大学の声楽科出身で、ドイツの音楽大学にも留学している。現在は、ドイツを本拠とするバリトン歌手として、各地の歌劇場で活躍しているらしい。だから、音楽のまったくのプロである。ドイツに留学する前には、都立高校の教員として音楽を教えた経歴もあるという。

車田氏は、私の感じていたことを、そうした音楽のプロの視点から、きわめて明確かつ論理的に指摘している。だから、なるほどと頷きつつ聞き入った。合唱コンクールの合唱に、なぜ不自然な印象を覚えるのかということも、発声法や表情の分析をもとに、その理由がきちんと説明されていた。

つまるところ、中学、高校の合唱は、コンクールでの入賞を第一の目標とするがために、すべてが内向きの、生徒一人一人の音楽的な個性を抑制するような指向を基本とするありかたになっており、指導者の側もまた、それをよしとするような指導を行っているのだという。それが、不自然さを生む根本的な理由だというのである。その結果、合唱の価値のすべてがコンクールに向けられてしまい、コンクールとは直接の関係をもたない、その外側の音楽の世界、さらに豊かで素晴らしい音楽の世界が広がっているにもかかわらず、そうした世界に関心が向かわず、ただただ内向きの狭い世界に跼蹐(きょくせき)するようなありかたになっているのだという。「不自然な姿」「独自な道」という、否定的な言葉による評価が示されているのは、それゆえだという。「独自な道」の「独自」とは、この場合、ガラケー(ガラパゴス携帯)の例が示されていたように、周囲から孤立した偏向、おかしな偏(かたよ)りという意味に等しい。
一般の音楽愛好家は、私も含めてだが、そうした合唱コンクールに関心を向けることがほとんどないが、それはだから当然のことになる。

ならば、これは高校野球のありかたとまったくの相似形なのではあるまいか。合唱コンクールにかかわる指導者、さらにはその課題曲の作曲者までをも含めて、利害を共通にする集団がまず形成されており、その中に中学や高校の合唱が、内向き指向のままに抱え込まれていることになる。そこには、外部というものがまったく存在しない。どう考えても不自然なありかたである。
もっとも、その内部にいる限りは、その当事者たちは何の不満も感じていない。つまり誰もがそこで自足している。おそらく充実した気分でいるのだろう。ならば、高校野球と同様、こうしたありかたを外部から批判しても何の意味もないことになる。皆が楽しくやっているのだから、余計なお世話だということになる。だから、右に述べたことも、ただのたわ言に過ぎない。そこで、この標題もあえて「憎まれ口」とした。

しかし、そうはいっても、このままでよいはずはない。車田氏も述べるように、音楽の世界はもっともっと豊かな広がりを持っているからである。なお、車田氏は、吹奏楽についてもほぼ同様な状況にあることを、別の配信動画で指摘しているが、私もこれに深く同意する。

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