また過激な発言をする。
コロナ禍の出口がなかなか見えないと思っていたら、今度は世界情勢がおかしくなって来た。ロシアのウクライナ侵攻である。この先行きもまだ見通せないが、プーチンという人物は、どこかヒトラーと重なるところがある。ヒトラーは、ドイツ国民の圧倒的な支持によって権力の座を得たが、その点はプーチンも同じである。政治支配のありかたも、ヒトラーのそれを思わせるところがある。
以前のブログ「ヒトラー『わが闘争』」にも書いたことだが、ヒトラーは、大衆によって形成される議会制民主主義がいかにいい加減なものであるかを絶えず批判し続けた。ヒトラーの地位は、選挙によって得られたものではあったが、それにもかかわらず、有能な為政者が愚かな大衆を率いる、とする貴族主義的政治原理がその支配の根底にあった。ナチスによる支配は、その具現にほかならない。プーチンの姿勢もまたこれと同様である。ヒトラーのごとく、貴族主義的政治原理の徹底をはかるところに、その政治理念の基軸を置いているように思われる。
ならば、ここでも民主主義のありかたが問われるはずだが、ロシアは旧ソ連邦以来の、共産主義国家の幻影に依然として囚(とら)われている。選挙の洗礼があるとはいえ、国家の指導者が貴族主義的政治原理を抱くのは、むしろ自然であるともいえる。それゆえロシアは、そもそも民主主義の国とはいえない。それがもっとも根本にある問題だろう。とはいえ、民主主義もまた大きな危うさを、その本質の中に抱えている。その脆弱性については、これも以前のブログ「民主主義の危機」に書いた。それはまた、ヒトラーが看破したところでもある。
もっとも、ここで述べたいのは、右の問題ではない。ロシアのウクライナ侵攻を奇貨として、この機に乗じて憲法を改正し、自衛隊を正規の軍隊として公認しようとする動きが顕著になりつつあること、それをどう考えるかが、ここでの問題になる。
もともと、こうした動きは、自民党の右派の間にはずっとあった。ウクライナ侵攻がなくても、近年の中国の軍事的な脅威の高まり、北朝鮮の核保有や度重なるミサイル発射実験なども、その動きを加速する要因としてある。
いわゆるネトウヨの多くも、憲法改正を主張する側らしい。ネトウヨは、一方では新自由主義経済(ニューリベラリズム)の信奉者でもあるが、その中心は、意外なことに、四十代前後の社会の中堅層が多いとされる。かつての安倍内閣を熱烈に支持した勢力の中心にも、ネトウヨが多くいたらしい。
自衛隊が憲法違反の存在であるのは、明白である。ふつうの国語力があれば、憲法第九条第二項に「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」との明記がある以上、自衛隊が憲法違反の存在であることは当然のこととして読み取れるはずであり、憲法違反ではないとする理由づけは、論理性を欠いたただの屁理屈に過ぎないといえる。
憲法を改正して、自衛隊を正式な軍隊にしようとする動きの底にも、これを憲法違反の存在と見る意識が強くあるからだろう。「いまのままでは自衛隊員が可哀想だ」などとという、情緒的な声を耳にしたこともある。
ところがである。実のところ、私は自衛隊の存在を肯定する立場である。災害復旧などに対処して来たこれまでの活動を見ても、自衛隊の存在は不可欠だと思う。防衛力についても、一定程度のものがなければ、国の安全は図れないだろうと思っている。非武装中立は、理想ではあるが、やはり絵に描いた餅だと思う。
だが、憲法を改正して、自衛隊を軍隊にすることには、大反対である。憲法違反の自衛隊の存在を、屁理屈ではあっても、何とか違反ではないと言いくるめてきたその知恵を、むしろ高く評価すべきであると考える。それが、表題とした「大人の知恵」である。
この「大人の知恵」には、利点がいくつもある。自衛隊を正規の軍隊にしてしまえば、いずれは独断専行のふるまいが生ずる。歴史を見れば、そのことは明らかだし、いくつかの国々では、現実にそうした暴走は繰り返し起こっている。自衛隊の存在が、憲法上の曖昧さを抱えていることが、無茶な振る舞いに走ることへの大きな抑止力になっていることを考えなければならない。憲法第九条が、海外への派兵を拒否することの根拠になっている利点(利点である!)も、同様に評価すべきである(近年、これもなし崩しにされつつある。アメリカへの弱腰は、政治家の能力の低さと見合っているが、これはそうした政治家を選んだ国民の責任でもある)。そこで、これらを指して、「大人の知恵」と呼ぶのである。
自衛隊を軍隊にしたいとする願望の持主は、先のネトウヨもそうだが、社会の中堅層から下の世代が多いように思う。この言い方には、抵抗があるかもしれないが、いわゆるデジタル的思考をもっぱらとする世代である。一方、先の「大人の知恵」のような発想、曖昧さを肯定するような思考は、アナログ的思考の最たるものであるに違いない。教育がそのように仕向けて来たためでもあるが、近年、デジタル的思考はあちこちで幅を利かせるようになりつつある。だが、右か左か、○か×かという単純な思考は、時に大きな危険を生む。「大人の知恵」ならぬ「子供の浅知恵」に陥(おちい)る虞(おそれ)があるからである。憲法改正の主張は、「子供の浅知恵」の最たるものである。
余計なことながら、憲法と「大人の知恵」について、もう一言。
首相の解散権の根拠を「天皇の国事行為」を定めた憲法第七条に求めるのも、相当な無理筋である。拡大解釈の末に、やはり屁理屈を並べて押し通している。首相に解散権がないと困るから、ここでも「大人の知恵」を働かせて、その根拠を何とか見つけ出したのだろう。屁理屈をひねり出す側も大変だろうと同情はするが(学問の論理性からはほど遠い)、もともと法の解釈や運用とは、事の性質上、そうしたものであるのかもしれない。法の世界も、なかなか大変なのだと、つくづく思わされる。
「大人の知恵」は、大事にしましょう。