目下、物置小屋に入れてあった資料の山を整理している。これも「終活」とやらの一環だが、その中に、大学入学時の、ガリ版刷りのクラス新聞や文集があった。廃棄するしかないのだが、文集(「サバト」1969年1月創刊号)の中に、私が作った新作狂言の台本が載っていた。大学に入って、狂言研究会に入会し、山本東次郎師(当時は則寿)の教えを受けていた。大学闘争の渦中ではあったが、授業がない(長期間の全学ストが続いていた)のを幸いに、熱心に稽古に通った。そうした中で、新作狂言の台本を作ることを思い立ったらしい。『今昔物語集』の「近衛の舎人共、稲荷詣でして、重方女に値(あ)へる語(こと)」(巻28―1)の翻案である。東次郎師に見せたら、こんな内容なら、あえて新作を作るまでもないと評されて、がっかりしたことを思い出す。そうした作ではあるが、文集は廃棄することに決めたので、ここに採録して残すことにした。未練といえば未練である。台本は、当時のままだが、新たに括弧内に読みを付した。分類が難しいが、「研究」ではないので「雑感」に入れておく。
「稲荷詣」
シテ 男(近衛の何某)
アド 女(妻)
シテ 是は此の当りに住居致す者で御座る。某、女房を一人(いちにん)持って御座るが、何共(なにとも)情の強(こわ)い女で御座る。某(それがし)をば、あれをせい、これをせいとて、日暮し追い使い、あまつさえ、悋気者で、何かというと、すぐに嫉妬致すによって、宿に居(お)れば心も屈して悪しう御座るによって、今日は(こんにッタ)稲荷へ詣でて、心を慰めうと存ずる。まずゆるりと参ろう。いやまことに、古(いにしえ)より申す通り、持つまいものは、口やかましい女房で御座る。
いや、来る程にこれじゃ。
参る人、帰る人、これはまた一段と賑やかなことじゃ。
いや、ここに立売(たちうり)があまたある。ほうほう風車。くるくるくるくる、廻るは廻るは、あっはっはっは。
や、これに人だかりがする。ちと覗いて見よう。
アド 罷り出(いで)たる者は此の当りに住居致す者の妻で御座る。某が夫、今日は稲荷詣に参りけるが、常日頃より、浮気者で御座るによって、気掛かりなことで御座る。この面(おもて)を被(かぶ)り、様子を見に参ろうと存ずる。まず急いで参ろう。まことに当節、わらわ程好い女房はあるまいと存じまするに、某が夫が浮気心を起こすは、合点の参らぬ事で御座る。
いや、あそこに夫が居る。ここでしばらく様子を見ようと存ずる。
シテ はははは。これは殊の他(ほか)の見世物で御座った。まことに、世間には芸達者の多いことで御座る。
いや、ここにも何やらある。何、一寸法師に起き上り小法師。これはこれは面白いものじゃ。
や、はったと失念致いた。まず御社へ詣でう。
いや、あの木の下に姿形の美しい女房が居る。フーム。見れば見るほど美しい女房かな。これを打ち捨てて行くも残念な事。まず言葉を掛けずばなるまい。
申し申し、そこな御方。
アド わらわのことで御座るか。
シテ なかなか其方(そなた)のことじゃ。某は稲荷詣に参った者じゃが、其方も御参詣か。
アド なかなか。願掛けに参っておりゃる。
シテ 何、願掛け。それはまた奇特なことじゃ。して、願いは叶いましたか。
アド 未だ叶いませぬ。
シテ 何、叶わぬ。フーム。して、願とはいかなる願いじゃ。差し支えなくは聞かせておくりゃれ。
アド 見も知らぬ御方に可様な事をお話し申すも恥かしき事ながら、申しましょう。わらわは、良い夫を得たいものと、この御社に願を掛け、日参致いて今日は(こんにッタ)丁度満願で御座りまする。
シテ フーム、良い夫をお求めとな。
アド なかなか、さようで御座りまする。
シテ イヤ、それは其方の幸(さいわい)と申すものじゃ。某が其方に言葉を掛くるというも、この御社の引き合わせ故、某が其方の夫になろう。
アド イエ。其方がわらわの夫になられますと。これはわらわを嬲(なぶ)らせらるるか。
シテ いやいや、決して戯れに申すのではない。心底から申すことじゃ。
アド 如何に真実のお言葉とは申せ、あまり突然のことじゃによって、ちと案じて見ずはなりませぬ。此方(こなた)は、ちとそちらをお向きやれ。
シテ 心得た。
アド さてもさても憎い男じゃ。わらわを見知らいで、他所(よそ)の女と思うて居る。ひとつ誑(たぶ)らかいてやろうと存じまする。
シテ いや申し申し。その様に御案じなさることは御座りますまい。某が其方とここで逢うことが、そもそも縁というものじゃ。早速(さそく)に我が宿へおこさしめ。
アド それでは、其方について参りましょうが、何かと尋ねたいことも御座る程に、道すがら、お聞きして参りましょう。
シテ それならば、とく御座れ。
アド 参りまする、参りまする。さて、伺いましょうは、此方は実(じつ)のある御方で御座りましょうか。
シテ それは無論の事じゃ。心変わりなど決してすることではないぞ。いや、そればかりか、其方には苦労などかけることではないわ。
アド それは誠に有り難い事で御座りまする。イヤ申し、肝心なことを聞き忘れて御座る。此方の名前を承りませなんだ。
シテ おお、某も名告るのを失念致いた。某こそは、近衛の舎人、何の何某(なにがし)と申す者じゃ。
アド 何。何の何某殿と申されますか。
シテ なかなか。
アド イエ。わらわは。以前より、其方が名は聞き及うで御座るが、其方には確か女房が御座るはず。
シテ な、なに女房。そ、そのような者は、ついぞ持ったこともないわ。
アド これ、お隠しなさるものでは御座りませぬ。真実、お持ちでないならば、何故(なにゆえ)そのようにお慌て遊ばしまするか。
シテ いや、かように厳しく仰せられては、言葉もない。成程、女房の様な者は居ることは居るが、某も真実女房と思うて居る様な女ではない。何というて、あの女は、其方のような美しい女房とは違うて、顔はまるで猿じゃ。うちを出ては、他(ほか)に召し使うてくれる処もないような奴じゃによって、某も気の毒に思い、下働き同様に置いてやっているまでのことじゃ。決して其方の心配なさるることではない。其方の気になることならば、追い出してやるまでよ。
アド それは真実のお言葉か。
シテ 何の、真実じゃ。まことに、あの女の側(そば)にいるのはもとより、今思い出いただけでも、胸が悪しうなるは。さあさあ、参ろう、参ろう。
アイタ、アイタ、アイタ。これは何と召さるるぞ。もし、物にばし狂わせられたか。
アド この男め、何を言う。わらわの声に覚えはないか。
シテ いや、何の覚えも御座らぬ。どうぞ、手を離して下されい。
アド 声に覚えがなくは、この顔でどうじゃ。
シテ やあ、そちは女房。今日は良い天気じゃが、其方も御参詣か。
アド 何をたわけたことを。わらわの顔が猿の面(つら)か。
シテ いや、あれはほんの戯(ざ)れ言(こと)。許いてくれい。許いてくれい。
アド いや、許すことはならぬ。おのれがような奴は、こうしてくれる。
シテ アイタ、アイタ、アイタ。許いてくれい、許いてくれい。
アド やい、どちへ逃ぐる。やるまいぞ、やるまいぞ。
シテ 許いてくれい、許いてくれい。
アド やるまいぞ、やるまいぞ。 (終)