トカラ列島の群発地震は、なかなか収まりそうもない。ニュースなどでは、その中の一島、悪石島の名がしばしば現れる。今朝(7月13日)の「朝日新聞」の「天声人語」を見ていたら、その悪石島が取り上げられている。1960年代の半ば以降、島に何度も通って民俗調査を行った下野敏見氏の『トカラ列島民俗誌』からの引用を中心にした記事である。
だが、「朝日新聞」なら、本来は、その記者が記した『美女とネズミと神々の島』も取り上げるべきだろう。1960(昭和35)年に、悪石島に一月ほど滞在した記録を、ルポルタージュ風にまとめたのが、その本である。著者は、秋吉茂氏。秋吉氏は、当時、朝日新聞西部本社の記者だった。1964(昭和39)年の刊行で、翌年、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。私の手許にあるのは、それを文庫本化(河出文庫)したもので、1984(昭和59)年の刊行である。
地震のニュースの中で、悪石島の様子がいつも取り上げられるので、その文庫本を取り出して、読み直してみた。忘れていることばかりだったのは呆れるほどだが、そこに記された内容、あるいは掲げられた多数の写真をあらためて見直して、ニュース映像で紹介されるいまの島のありようとの落差にひどく驚いた。
秋吉氏は、一月ほどの滞在ではあったが、島の生活によく溶け込み、自ら志願して、小・中学校の臨時教員のようなこともやっている。島の生活実態についても、実に細かな観察をおこなっている。島の民俗、信仰、あるいは島の自治組織の実態などについても、丹念に調べた上で、それを一つの読み物として提供してくれている。もっとも、読者の興味を引くために、過剰な描き方がなされているのではないかと思うところもあったりはするのだが、高度成長期以前の、絶海の小島に住む人々が、どんな生活を送っていたのかを知る上で、いまも考えさせる内容を含んでいる。
現地妻を提供させられそうになった話など、末尾のところでうまく決着がつけられてはいるが、それなりの事実はあったにせよ、本当にそんなことがあったのだろうか、と思ったりもする。大ネズミの大群が海を渡って島に来襲する話も、その真偽に疑問を抱いたりもしたのだが、調べて見ると、そうしたことは実際にもあるらしい。
貧しい島では、米の飯を食べることは、最大級のご馳走で、飢饉などの際には、死にかけた病人に、筒に入れた米の音を聴かせたとする話もある。折口信夫が、戦中・戦後の食糧難の中で詠んだ「米の音 あな微妙(イミ)じよと 死にゆきし 昔咄も、笑へざりけり」という歌を髣髴させるような現実が、なお残されていたことになる。
神への信仰がきわめて厳重なこの島のありかたに、秋吉氏は、それをいかにも遅れたこととして、神の絶対的な支配から解き放たれるよう、島人に勧める箇所もあるが、過酷な自然の中で生きることを迫られた生活の現場に、都会からやって来た近代人の思考を無理に突きつけているようで、そこにはひどく違和感を覚えた。神とは何か、なぜ神を祀るのかという、根本的な問いかけが、秋吉氏の中にはなかったのだろう。
総代を頂点とする厳格な自治組織が島を支えていることも、興味を引いた。その厳格さがなければ、島の存立はやはり難しかったのだろう。
その悪石島が、その後、どういう道筋をたどって、いまニュース映像で流れているような、近代的な風貌のうかがわれる島に変貌していったのか。高度経済成長、さらには離島振興のさまざまな動きが、おそらくはその背景にあったのだろう。
なお、私は、賀来敦子主演の映画「青幻記」の舞台となった沖永良部島をはじめとする、奄美の島々は何度か訪れたが、トカラ列島の島にはまだ行ったことがない。今後も行く機会があるのかどうか。いまはただ、地震が平穏に終熄することを願うばかりである。