『蜻蛉日記』の伝本にはよいものがなく、宮内庁書陵部蔵桂宮本が最善本とされるが、そこにも誤記、誤脱があり、そのままでは意味の取りにくいところが少なくない。したがって、他の伝本などを参考にしながら、本文整定をせざるをえないのだが、その一つに、以下のような一文がある。上巻の前半部分、天暦十年(九五六)七、八月あたりの出来事である。兼家の訪れが途絶えがちになり、煩悶する作者に追い打ちを掛けるように、帳台(寝台)に結びつけていた魔除けの矢まで返すよう、兼家が要求したとする記事の一部である。
いかなるものとうかにうち置きたるものとみえぬくせなむありける
これが問題となる一文だが、まったく意味が通らない。そこで、これまで私は、柿本奨氏の校訂本文(角川文庫『蜻蛉日記』)に従って、ここを理解してきた。
いかなる物も、こゝにうち置きたる物、とゞめぬときなむありける。
兼家は、通うこともなくなった作者の家から、自分の物はすべて置き残すことなく持ち帰ったとする理解である。帳台に結びつけた魔除けの矢を置き残していたが、それを後(あと)で返すよう、作者に要求したとする続く筋書ともよく呼応する。当時は、関係が断絶すると、相手に送った恋文の類いも、互いに送り返したらしい。だから、相手に手紙を送り返せと求めるのは、関係を断ち切る意志を意味した。そうした手紙には、相手との関係を保証する「形見」としての意味があったから、関係が絶えた相手の許にそうした「形見」が留め置かれるのは、具合の悪いことだったのだろう。互いに脱ぎ交わした下衣などは、もっと具体的な「形見」になるが、それを返すよう求められた女が、それに憤慨して相手の男に送った怨みの歌が『万葉集』に見えている(巻一六・三八〇九)。そのような次第で、柿本氏の校訂に従うことにしたのだが、以上のことは旧稿「形見の返却と『蜻蛉日記』」(『額田王論』、若草書房)にも詳しく記してある。
新日本古典文学大系『蜻蛉日記』(今西祐一郎氏)の校訂も、柿本氏とほぼ同様だが、「とゞめぬときなむありける」を「とゞめぬ癖なんありける」とする。関係を絶つ際に、相手の許から自分の品物を持ち帰ることを「癖」と言いうるのかどうか、そこに疑問を覚える。底本の本文をできるかぎり尊重しようとする姿勢ではあろうが、不自然さは拭えない。
さて、問題はここからである。上村悦子氏の『蜻蛉日記(上)』(講談社学術文庫)、新編日本古典文学全集『蜻蛉日記』(木村正中・伊牟田経久氏)は、この箇所を、その少し前から引用すると、次のように校訂する。
ただなりし折はさしもあらざりしを、かく心あくがれて、いかなるものと、そこにうち置きたるものも見えぬくせなむありける。
現代語訳(上村氏)には、「ふだんの場合はそれほどでもなかったが、このようにぼんやりとして心がうわの空のような状態になると、そこにちょっと置いてある物もまったく目にはいらぬ時がありがちであった」とある。
旧稿で、こちらの理解に賛意を示さなかったのは、繰り返すように、魔除けの矢との続き具合を重視すべきだと考えたためだが、私自身の体験から、いまはこちらの理解もなかなか捨てがたいと思うようになった。上村氏は、ここを「久しく兼家が訪れないので一種のノイローゼとなり、そこに置いたものも目に入らない状態、いわゆるヒステリー失明症の状態に時折おちいることもあった」と説明する。心因性の視覚障害に陥っていたということだろう。
そこで、私自身の体験になるが、目の老化とともに、遠近の把握がうまくいかず、近くにある物に気づかなかったり、あるいは目の前にある探し物が目に入らず、「ないない、どこにいった」と騒ぎ立てるようなことが、時折、起こるようになった。心因性の視覚障害とは違うが、これも「いかなるものと、そこにうち置きたるものも見えぬくせ」であるのは確かであろう。
そこから、この理解も、ひょっとすると当たっているのかもしれないと思うようになった。むろん、魔除けの矢との結びつきという難点はあるのだが、どちらの理解も本文に大きく手を入れた結果であり、こちらが絶対と結論づけるのは難しいのではあるまいか。さて、どう考えたらいいのだろう。
研究とはいえないが、雑感とは異なるので、研究に分類しておく。