さて、ここで少し、日向に密着した神話の世界に転じてみたい。といっても、そのごく一端に触れるに過ぎない。
ここで取り上げたいのは、髪長比売(かみながひめ)の物語である。
『古事記』「応神記」に、次のような話が見える。応神天皇が、日向(ひむか)の豪族、諸県君牛諸(もろがたのきみうしもろ)の娘、髪長比売が美女であることを耳にして、お側でお使いになろうとして、召し出されたところ、皇太子である大雀命(おおさざきのみこと)(後の仁徳天皇)が、難波津(難波の港)にやって来た髪長比売の姿を偶然見かけ、その輝くような美しさに魅せられ、建内宿禰(たけうちのすくね)に頼んで、ついに自分の妃に譲り受けるという話である。
『日本書紀』「応神紀」十三年条には、ほぼ同内容が記されているが、そこには髪長比売(『日本書紀』では髪長媛)の父の名が、諸県君牛諸井(もろがたのきみうしもろい)とされている。さらに、そこに付載された異伝には、さらに詳しくその状況が記されている。異伝では、まず、①諸県君牛(もろがたのきみうし)(牛諸井でなく牛とある)が、高齢になったため、朝廷に仕えることができなくなり、その代わりとして、娘の髪長媛を献ったこと。②天皇が、淡路島に狩りに赴いた際、数十頭の鹿が海に浮かんでやって来るのを見るが、やがて鹿子水門(かこのみなと)(兵庫県の加古川の河口の港)に入ったこと。③不審に思った天皇が、使いを遣わして様子を見させたところ、角(つの)の着いた鹿の皮衣を身にまとった一団を率いた諸県君牛で、「娘の髪長媛を献るためにやって来た」と答えたことが、順に語られる。明示はないが、この出で立ちで船を漕ぎ、髪長媛を連れてきたのだろう。
髪長比売は、仁徳天皇の妃の一人となり、大日下王(おおくさかのおおきみ)と若日下部命(わかくさかべのみこと)が生まれる。きわめてややこしい経緯があるのだが、後にこの若日下部命は雄略天皇の大后(皇后)となる。
若日下部命と雄略天皇との間に子は生まれなかったが、それにしても、日向の豪族、諸県君と大王家(天皇家)との間に、こうした姻戚関係が結ばれていることは、注目に値する。興味深いことに、この時期、諸県君との姻戚関係は、他にも見られる。
『古事記』「景行記」には、景行天皇が、日向(ひむか)の美波迦斯毗売(みはかしびめ)を娶(めと)って生まれたのが、豊国別王(とよくにわけのおおきみ)であるとする。『日本書紀』「景行紀」十三年五月条によると、景行天皇は、熊襲を討伐するため、この地にやって来たのだが、そこで美波迦斯毗売(みはかしびめ)(『日本書紀』では御刀媛(みはかしびめ))を妃とし、豊国別王(とよくにわけのおおきみ)が生まれたとある。この豊国別王(とよくにわけのおおきみ)は、「日向国造(ひむかのくにのみやつこ)の始祖(はじめのおや)なり」と注記されている。注意すべきは、『先代旧事本紀』「天皇本紀」が、この豊国別王(とよくにわけのおおきみ)に「日向諸県君が祖(おや)」と注記していることである。ここからも、諸県君と大王家(天皇家)とのつながりが見て取れる。
さらに、『日本書紀』「景行紀」の后妃関係記事に、日向髪長大田根(ひむかのかみながおほたね)を妃(きさき)として、日向襲津彦皇子(ひむかのそつひこのみこ)が生まれたことが見えている。日向髪長大田根(ひむかのかみながおほたね)の出自は不明だが、日向とのつながりは確かであろう。ここに「髪長」とあることは、仁徳天皇の妃となった髪長比売を想起させる。
このように、景行、応神、雄略天皇の代に、日向出身の豪族の娘、とりわけ諸県君の娘との姻戚関係が生じているのだが、それがなぜ生じたのかが、問題となろう。
以下、北郷泰道(ほんごうひろみち)氏の『海にひらく古代日向』(鉱脈社)、同『神話となった日向の巨大古墳』(2017)、西都原考古博物館「日向諸県君と葛城氏」(2017)などを参考に述べる。
諸県は地名だが、そこは旧諸県郡、現在の西・東・北諸県郡の範囲(大淀川中・上流域、川内川上流域を中心とする地域)よりずっと広い地域と捉えるべきだとする見解が有力とされる。諸県君は、そこを支配する豪族、首長と見てよいだろう。
では、なぜ大王家(天皇家)との姻戚関係が生じたのか。これは、支配・服従の関係での現れではなく、大王家にとって日向の勢力、とりわけ諸県君と連携することに重要な意味があったからだとされる。その理由は、大王家が、南西諸島(琉球弧)から、日向灘を経て瀬戸内海へ至る海上交通権を掌握する上で、これらの地域の首長層と連携する必要があったからだとされる。これは肯われてよい理解といえる。
そもそも、南西諸島(琉球弧)とのつながりは、記紀神話にも、その痕跡が大きく残されている。その典型が、トヨタマビメの神話である。いわゆる海幸(火照命(ほでりのみこと))・山幸(火遠理命(ほをりのみこと))神話である。
兄の釣り針を失った山幸は、海神(わたつみのかみ)の宮に行き、そこで海神の娘豊玉毗売(とよたまびめ)と結ばれる。その間に生まれるのが、鵜葺草葺合命(うかやふきあへずのみこと)である。その出産の場面だが、海辺に産屋(うぶや)を建て、鵜の羽で屋根を葺くよう指示する。ところが、屋根を吹き終わらないうちに、生まれてしまったので、ウカヤフキアヘズの名があるという。
産屋に鵜の羽で屋根を葺く意味だが、南西諸島では、ウミウの羽には安産の霊力があるとされ(可児弘明(かにひろあき)『鵜飼』、中公新書)、また沖縄の島々には、妊婦のいる家で屋根の葺き替えをする際、一部分を葺き残すという風習があり、それとの対応があるのではないかとする説もある(小島瓔禮(こじまよしゆき)「海上の道と隼人文化」海と列島文化5『隼人世界の島々』、小学館)。
これらは、あきらかに南西諸島とのつながりを示すものといえる。さらにいえば、トヨタマビメは出産の際、本来の姿になって子を産むので、その姿を見てはならないと、ホヲリに命ずる。いわゆる「見るな」の禁忌である。その禁忌を犯して、ホヲリが産屋を覗くと、トヨタマビメは、「八尋(やひろ)わにに化(な)りて、匍匐(は)ひ委蛇(もごよ)」っていた、とある。つまり、腹ばいのたうち回っていたというのである。この八尋ワニは、一般にはサメの類とされるが、私は爬虫類のワニと見てよいのではないかと考えている。もしそうなら、これもまた南方的な要素が、ここに残されていることの証となる。日南市の鵜戸神宮がその神話の故地とされていることは、ご承知のことであろう。