研究

「都」と「鄙」

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古代の日本には、「都」と「鄙(ひな)」とを截然と分ける意識があった。「都」の範囲は、大雑把に述べれば、都を置いてよいとされた国々のある地域で、いわゆる幾内の五国、大和・山背(城)・摂津・河内・和泉国の範囲がそれにあたる。それ以外の国々は畿外の国とされるが、それらがすべて「鄙」と呼ばれているかといえば、そうではない。いわゆる東国、つまり「東=アヅマ」の地域は「鄙」とは呼ばれない。それでは、「東=アヅマ」の範囲はどこになるのか。『万葉集』を見ると、それがはっきりとわかる。東山道(とうせんどう)は信濃国、東海道は遠江(とおとうみ)国から東、陸奥(みちのく)国に及ぶ国々がその範囲となる。そのことは、「東=アヅマ」の歌を集めた『万葉集』の東歌(防人歌も同様)に明瞭に示されている。古代の日本においては、まずは「都」と「鄙」の対立構造があり、「東=アヅマ」は、その対立構造とは別の、いわば第三の地域として存在していたことになる。

ここまでのことは、すでにいくつかの論(たとえば放送大学の教材『『古事記』と『万葉集』』など)で述べて来たところなのだが、その際、その例証として、二つの資料を示した。一つは『日本書紀』「崇神紀」四十八年正月一日条の記事。崇神天皇が後継者を定めるため、二人の皇子に夢見をさせる。兄の豊城命(とよきのみこと)は、御諸山(みもろのやま)に登り、東方に刀槍を振るう夢を見る。一方、弟の活目命(いくめのみこと)も、やはり御諸山に登り、縄を引きめぐらして粟(あわ)を食(は)む雀を追う夢を見る。その報告を聞いた崇神天皇は夢占いをして、活目命を後継者に指名し、豊城命には東国支配を命じたとする記事である。ここから、東=アヅマが天皇の版図とは区別されるべき異域であったことが明らかになる。
もう一つは、『古事記』「雄略記」の歌謡である。そこでは、世界全体を覆う槻(つき)の巨木を讃めて「上(ほ)つ枝(え)は 天(あめ)(=都)を覆(お)へり/中(なか)つ枝は 東(あづま)を覆へり/下(し)づ枝は 鄙を覆へり」(記一〇〇)と詠われている。これも「都(ここには「天(あめ)」とある)」と「鄙」の対立構造とは別に、東=アヅマがあったことを示す例証となる。なお、「天」の霊威が直接に及ぶのが「都」だから、「天」=「都」と見てよい。

ここで問題となるのは、「雄略記」の歌謡である。「上つ枝」「中つ枝」「下づ枝」と挙げていくところで、なぜ「東=アヅマ」が「下づ枝」でなく「中つ枝」の覆う範囲とされているのか。そこが、疑問としてずっと頭の中にあった。

先週の土曜日(5月9日)、古代文学会の例会があり、居駒永幸氏が『古事記』「応神記」の大山守(おおやまもり)の反乱伝承の歌謡についての考察を報告された。私はZOOMで視聴したのだが、その発表資料を見ているうちに、右の疑問がどこかすっきり解けたように感じた。

居駒氏は、記紀歌謡の表現特性を示すために、いくつかの歌謡を例示されたのだが、その中に「応神記」の次のような歌謡があった。以下は、私の『古事記私解 Ⅱ』から引用する。

いざ子等(こども) 野蒜(のびる)摘(つ)みに/蒜(ひる)摘みに 我が行く道の/香ぐはし 花橘は/上(ほ)つ枝(え)は 鳥(とり)居枯(いが)らし/下(し)づ枝(え)は 人取り枯(が)らし/三栗(みつぐり)の 中(なか)つ枝(え)の/ほつもり 赤ら嬢子(をとめ)を/いざささば 宜(よら)しな(記四三)
(訳)さあ、お前たち、野蒜(のびる)を摘(つ)みに、蒜(ひる)を摘みに、私が行く道の、香りもすばらしい花橘は、上の枝は、鳥がとまって啄(ついば)み枯らしてしまい、下の枝は、人が摘んで枯らしてしまい、いがの中に三つ並んだ栗の実の真ん中の実のようにすばらしい中の枝の、ほつもり(語義不詳)、赤く照り耀くような嬢子(おとめ)を、さあ、手に入れたなら、いいだろうなあ。

右は、応神天皇が召し出そうとした地方豪族の娘を、その皇子である大雀命(おおさざきのみこと)(後の仁徳天皇)に与えることになるとする話の中で、天皇が大雀命に詠み掛けた歌とされる。その娘が「ほつもり 赤ら嬢子(をとめ)」と詠われている。その際、その娘のさまを、道で見かけた花橘の花を比喩に、上の枝や下の枝の花は鳥や人が枯らしてしまっているが、中の枝の花はすばらしいと詠って、その美しさを讃美している。

居駒氏の資料を見ているうちに、この歌謡のありかたが、先の「雄略記」の歌謡と重なることに気づいた。「応神記」の歌謡の基本は、まずは「上つ枝」と「下づ枝」を対として捉えるところにある。その上で、「中つ枝」のすばらしさを称揚している。つまり上―下の関係が基本としてまずあり、それを踏まえた上で、中を提示するというありかたになっている。

そこで、「雄略記」の歌謡について述べるなら、まずは上―下の関係によって「天=都」―「鄙」という王権の基本的な版図のありようを述べ、そこに中として、第三の地域としての「東=アヅマ」を新たに位置づけようとしていることが、ここから確かめられる。「応神記」の場合は、上下中の順なので、右のことが見えやすいが、「雄略記」の場合は、上中下の順なので、そこがややわかりにくくなっている。いずれにしても、この表現方法は、上―下の関係によって表現されるものを前提として、それとは異なるありかたを中によって示そうとする意味があったことが確かめられる。

右に述べたことは、居駒氏の報告内容とは直接には関わらない。しかし、その報告資料をながめているうちに気づいたことなので、居駒氏には心より感謝申し上げる次第である。

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