英語力の衰えをつよく感じるようになったので、数年前から、学習用の週刊英字新聞the Japan times Alphaを読んでいる。辞書には載っていない、最新の言い回しなどが出て来たりして、ずいぶんと勉強になる。brotherやsisterでなく、siblingがしばしば使われているのも、驚いたことの一つである。ジェンダー論の影響だろうか。子どもが使っていた三十年近く前の英和辞典(ライトハウス英和辞典)が手許にあるが、そこにsiblingは載っていない。
Alphaの最終面には、英語を学び、その語学力を生かして、国際的に活躍している人たちの紹介記事が毎号載る。国際機関で働いていたり、海外とかかわる仕事に従事したりしている人たちである。芸術分野で海外に拠点を広げているような人たちもいる。インタビューをもとに、記者が再構成しているらしい。多くは若い世代の人たちで、第一線を退いたような年輩者は出てこない。四、五十代が上限だろうか。
英語との出会いの契機はいろいろだが、みなそれぞれに海外での充実した体験を経ている。留学が大きな意味をもつのはすべてに共通するが、高校からの留学である場合も少なくない。大きな苦労はあっても、それを乗り越えてそこでの生活に馴染(なじ)み、それが現在の自分の仕事にどう結びついているのかが語られている。英語を学んだことで、自分の人生がどんなに豊かになったのかということが主眼だから、これはAlphaの刊行目的とも合致する。若い世代のポジティブな生き方が示されていて、昨今のひ弱な若者の姿に引き較べると、ずいぶんと逞(たくま)しくも感じられる。
本題は、ここからである。英語はいまや国際的な共通語となり、これを習得することが必須といえる時代になった。学校教育でも、英語はますます重視されるようになった。それ自体は必ずしも悪いこととはいえない。
だが、英語の重視は、一方で、国語への軽視、とりわけ古典へのそれを助長する結果を生んでいる。古典の場合、軽視どころか、いまや古典無用論まで生み出しかねないような状況ですらある。標題に掲げた「古典の危機」とは、それを意味する。
Alphaの記事を読むと、中学・高校の英語教育についての言及は見られるものの、国語教育については、触れられることはない。古典など、およそ意識の外にあるに違いない。
だが、古典はほんとうに無用なのだろうか。日本語を母語とするかぎり、それはあり得ないことだと考える。
人間の思考の基底には言葉がある。人間は言葉を通じて思考する。その言葉は、一定の世界像に支えられている。その世界像は、時代時代の社会や文化のありよう、言い換えるなら歴史性とも不可分に形成される。言葉はその世界像に支えられている。
言葉は、まずは所与のものとしてある。それが母語である。そこで、母語を支える世界像こそが、母語を用いる人間の思考を規定することになる。
ここで、日本語に戻ろう。日本語には主語がない。日本語の根本には受動意識(受身の意識)がある。これらは、日本語の大きな特質だが、その背景にあるのは、外界(自然)を主体とする受動的な世界像である。
最近読んだ本の中で、もっとも印象深かったのは、ペーター・ヴォールレーベン『樹木たちの知られざる生活』(長谷川圭訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)である。著者はドイツの森林管理官。ここには、森林の樹木がそれ自体で一つの共生社会を形成しているさまが描かれている。その腰帯の惹句(じゃっく)に「木は仲間と会話し、助け合う」とあるとおりの内容である。ドイツの森林の話だが、これを読んで、すぐに思い当たったのは、日本の神話の「草木(くさき)言問(ことど)う」世界で、日本の古代の人びとが受感していた世界像と共通するものをつよく感じた。日本の場合、外界(自然)を主体とする受動的な世界像は、そうしたところに胚胎する。
英語の基底にも、それを支える世界像があるはずだが、おそらく英語を学んで、世界に雄飛しようとする人たちは、そうした世界像までは意識していないように思われる。Alphaを見ても、そのような問題意識はまったく見られない。
いまの英語を中心とする世界は、西欧の文化、とりわけキリスト教の一神教的な世界像を背景に成立している。だから、先の『樹木たちの知られざる生活』のような、汎神論的な世界像を背景とする本が、驚きをもって受け容れられるのだろう。ドイツでは100万部を超えるベストセラーになったという。もちろん、西欧の文化の根底にも、キリスト教以前の世界像が根深く存在するが、それが目につきにくいということかもしれない。
世界像は歴史性とも不可分だから、古典を学ぶ意味は、その歴史性をあきらかにすることでもある。これは、日本でも西欧でも同様であろう。
英語を学ぶためには、その基底にある世界像を知らなければならない。そのためには、まずは母語である日本語、その日本語を支える世界像を知らなければならない。彼我の本質的な違いを理解しなければならないからである。これは、理の当然であろう。ならば、国語、とりわけ古典をきちんと学ぶことは、英語を学ぶ者にとっても不可欠であるはずである。
古典無用論の背景には、軽薄な合理主義がある。経済活動優先のきわめて邪(よこしま)な論理である。世界像など知る必要はない。意志が通じあえばよい。実に安易である。
学校教育の中で、英語重視、国語軽視が進むことは、それゆえ大いに危惧される。「論理国語」「文学国語」とは、どういう命名意識で作られた教科なのか。この教科名そのものが、日本語として破綻している。これが、国語の教科名とは、実に恥ずかしい。命名者は出て来なさい。古典を学ばなければ、私たちがいま生きているこの世界のありようをきちんと把握できない。それが世界像を知ることの意味である。
英語を学ぶことは、これからの日本にとって大事なことである。だが、それ以上に、国語、とりわけ古典をきちんと学ぶことが重要であることを、あらためて述べておきたい。
*古典を学ぶ意味については、近著『万葉樵話(まんようしょうわ)』(筑摩書房)の「おわりに」の章で詳述した。そこでの副題も「古典を学ぶ意味」である。それゆえ、ここでは具体的な記述は省略した。御関心ある向きは、ぜひ参照していただきたい。