研究

神を「人」と数えること

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過日、青柳まやさんから、論文の草稿を見てくれるよう頼まれた。青柳さんの論文は、『先代旧事本紀』の、ニギハヤヒの降臨神話について論じているのだが、そこに引用された「天孫本紀」の本文を見ていて、思わぬことに気づいた。

ニギハヤヒが降臨する際、天上の司令神であるタカミムスヒは、三十二神を供奉させる。「天孫本紀」は、そこを、

三十二人をして並びに防御(ふせぎ)と為して、天降り供(つか)へ奉らしむ(原文「令三十二人、並為防衛、天降供奉矣」)(訓読、原文は、工藤浩ほか『先代旧事本紀注釈』による)。

のように記す。供奉する神々は、「三十二神」ではなく、なぜか「三十二人」とある。「天香語山命(あまのかごやまのみこと)」「天鈿賣命(あまのうずめのみこと)」「天太玉命(あまのふとたまのみこと)」「天児屋命(あまのこやねのみこと)」以下の神々だから、「神」として待遇されるのが自然だろう。それゆえ、「三十二神」、あるいは、神を数える際の単位「柱」を用いて、「三十二柱」とあるべきところだろう。

さらに、タカミムスヒは、この「三十二人」の供奉神に加えて、「五部人(いつとものを)」「天物部(あまつもののべ)」、「天物部二十五部人」などを供奉させる。ここも、単位は「神」(あるいは「柱」)ではなく、「人」である。

『先代旧事本紀』は、他の箇所では、神を「人」とは数えていない。「陰陽本紀」では、イザナキ、イザナミの二神から生まれた神々について、

伊弉諾(いざなき)、伊弉冉(いざなみ)二尊、共に生める嶋十四、神卌五柱なり(伊弉諾、伊弉冉二尊、共生嶋十四、神卌五柱也)。

のように記している。『古事記』を下敷きにした箇所だが、『古事記』には「共所生嶋壱拾肆嶋、神参拾伍神」とあるから、「陰陽本紀」は「柱」の単位を新たに加えている。そこから、『先代旧事本紀』が、神の数え方には、十分に意識的であったことがわかる。

ならば、なぜ「天孫本紀」では、ニギハヤヒの供奉神を数える単位に「人」を用いているのか。そこには、何らかの主張があったと考えざるをえない。ところが、そこがわからない。先の『先代旧事本紀注釈』にも、何も記されていない。管見のかぎり、そのことに触れた論は見られない。そうした神々は、地上世界に降り立ち、さまざまな氏族の祖神となるから、その後裔である人々と重ねるために、「神」(あるいは「柱」)ではなく、「人」を用いたのであろうか。

以上のことは、青柳さんにも伝えてあるので、何か納得のいく理解を示してくれるかもしれない。それにしても、神を「人」と数えるのは異例である。
これを御覧の方々も、何かお気づきのことがあれば、ぜひ御教示をいただきたい。

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