研究

辞書は引くもの

投稿日:2022年10月29日 更新日:

大学在職中、国文学科に進学した学生たちとの、最初の演習の場で、いつも紹介していた言葉がある。「辞書は引くものであって、引かれるものではない」という言葉である。誰の言葉であったのかは、忘れてしまったのだが、これは名言だと思う。

ほとんどの学生は、高校までは、辞書の説明は絶対だと習う。わからない言葉があったら、辞書を引きなさい、と教えられる。そこに記されている説明は、あたかも金科玉条のごとくに捉えられている。しかし、それは大きな過りである。辞書の説明は、時として、まったく当てにならないことがある。それゆえ、辞書の説明は、一つの参考に過ぎず、ある言葉をきちんと理解するためには、その用例を仔細に検討するなどして、自らが主体となって、その意味を考えなければならない。辞書の説明を鵜呑みにすることは、辞書に「引かれる」ことにほかならず、とりわけ学問の場では、辞書は批判的に、言い換えるなら、criticalな立場で「引く」のでなければならない。そこに、「辞書は引くものであって、引かれるものではない」という言葉の意味がある。――学生たちには、いつも、そんなことを話してきた。

辞書、この場合は、古語辞典を念頭に置いているのだが、実のところ、高校あたりで使用されている小型の辞書には、いい加減なものが少なくない。大昔、大学受験の際に、ずいぶんとお世話になった、小西甚一『古文研究法』(ちくま学芸文庫で、近年、復刊されたという)の「はしがき」で、小西氏が、当時の受験参考書について、「えらい先生の名にはなっているが、中味は大学院あたりの学生が他の参考書を抜き書きし寄せ集めたもの」が、いくらもあることを指摘している。小型の辞書の場合にも、遺憾ながら、類似の例が少なからずあるように思う。「えらい先生」が編者となり、弟子筋にあたる執筆者を動員して、原稿を拵(こしら)え上げているような事例が、しばしば見受けられるからである。

もっとも、そうした作られた古語辞典の説明が、すべて不適切というわけではない。しかし、そうした辞典の執筆者たち(さすがに「大学院あたりの学生」は、いまは少ないかもしれないが)は、担当する単語の一々(いちいち)について、その用例を遍(あまね)く検討し、執筆者同士での議論を経るなどした上で、その本義を明らかにする、といった面倒な作業(それ自体が学問的な営為にほかならない)を行っているとは、とても考えられないからである。時には、先行辞書の説明や用例を借用し、それとは記述を微妙に変えるなどして(まったく同じでは不都合なので)、原稿を作成しているような事例は、少なからずあるように思われる。

そうして出来上がった古語辞典は、やや過激な言い方ではあるが、これも小西甚一氏の用語を借りれば、「糊ハサミ式」とでも評しうるようなものにほかならない。ならば、ここでも、そうした辞書の説明を素直に受け取ることはできない。
そこで、辞書の説明はまず疑え、ということになるのだが、それが「辞書は引くもの」ということの意味にもなろう。

もっとも、周到な準備を重ね、編者の識見が細部にまで徹底された、優れた小型の古語辞典もある。大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波 古語辞典』である。とりわけ上代語の部分には、大野氏の多年にわたる研究成果が反映されており、基本語についての語源・語史・語法等の解説は、寔(まこと)に行き届いている。裨益(ひえき)されるところも少なくない。
とはいえ、その『岩波 古語辞典』にも、時として、疑義を抱かせるような説明が見られなくもない。むろん、そうした疑義は、先の「糊ハサミ式」のいい加減さとは異なり、研究上の視点の相違に起因するから、そうした箇所については、あらためて議論(学問上の議論)の俎上(そじょう)に上(のぼ)せなければならない。一例を挙げるなら、「むかし」「いにしへ」の項目は、私などの理解とは、まったく正反対の説明がなされている。それゆえ、『岩波 古語辞典』のような優れた辞書であっても、「引かれるもの」ではなく、「引くもの」として、向きあわなければならない。

「辞書は引くものであって、引かれるものではない」――これは、やはり至言だと思う。

-研究

Copyright© 多田一臣のブログ , 2025 AllRights Reserved.