雑感

子ども食堂

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昨今「こども食堂」のことが、いろいろなところで取り上げられている。ACジャパンのTV広告もそうだが、電車の車内広告などでも、その様子が紹介されている。
「子ども食堂」は、すでに全国で一万カ所を超えて開設されており、国などからも一時的な支援金が支給されるようになり、また一般企業などからの援助も、社会貢献というプラスイメージがあるためか、次第に拡大しているという。

それ自体は結構なことかと思っていたら、「東洋経済online」の「こども食堂から一線を引く」という記事が目に入った。5月30日付の記事である。副題に「《こども食堂》の名付け親が決意した背景 ボランティアでできる支援には限界がある」とあり、そこに興味を覚えたので、読んでみた。

「子ども食堂」の名付け親で、13年前に東京の大田区で、貧困などの困難を抱えた子どもたちに、一人で入っても怪しまれない食事の場を提供する目的で、「きまぐれ八百屋 だんだん」を開設した近藤博子さんの、インタビュー記事である。

これを読むと、「子ども食堂」の活動の一線から、なぜ身を引くことを思ったのかという理由がわかって、いろいろ考えさせられた。近藤さんの説明はきわめて明確で、「子ども食堂」は、あくまでも地域社会のありかたに支えられた任意のボランティア活動としてあるのであり、行政の下請けなどではないという。行政の縦割り的なありかたが、結果として、子どもたちの貧困を生む根本的な問題、たとえば親の就労、子どもの教育、住宅といった問題に、何ら有効な解決策を示せないまま、子どもの貧困はますます厳しい状況に追い詰められている現実。一方、「子ども食堂」は、あくまでも子どもたちのお守りになる場所を提供しているだけであり、行政の不完全さを代替する役割を積極的に引き受けているわけではない、というのが近藤さんの主張である。なるほど、もっともな意見だと思う。

さらに、「こども食堂は子どもの貧困解消に役立つ、良いことだ」というイメージが広がりすぎてしまった現状に対しても、近藤さんは疑問を投げ掛けている。「国民の善意を利用して、これはいいことですから、みんなで頑張って下さい」と煽りつつ、国民をタダ働きさせるのが、いまの日本の体制なのではないかというのも、実に鋭い指摘である。13年間「こども食堂」を運営し続けた人の発言であるだけに、きわめて重いものがある。

子どもたちの貧困がこれほどあからさまになったのは、一つには小泉、安倍と続いて来た、新自由主義(ネオリベラリズム)の流れが背景にある。何よりも、社会の格差が著しくなった。それを当然のこととして、自己責任とやらを振りかざす手合いも多く現れた。世の中がぎすぎすしだしたのも、この頃からである。それが、いまの貧困を生み出すところにつながっている。なお、近藤さんは、「子ども食堂」の運営活動により、2023年に第57回吉川英治文化賞を受賞している。

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