このブログの初めのところで、「民主主義の危機」「ヒトラー『わが闘争』」という、二つの文章を書いた。
ポピュリズムに迎合する政治家の姿勢が、現在の民主主義の危機的な状況を生み出していることを、そこで述べた。しかし、本当の責任は、そうした政治家をよしとする国民の側にある。倫理観というものが、すっかり喪われてしまった情けない現実が、ますます浮き彫りにされようとしている。
先の二つのブログの文章は、日本学術会議の会員任命拒否問題について、日本文学協会の雑誌『日本文学』の「子午線」に載せた短文が契機になっている。会員任命拒否については、それに抗すべく、さまざまな学会や協会が、それへの撤回を求める声明を出し、署名活動を行ったりもした。
しかし、上に記したような現実の中では、そうした声明や署名活動は、少しも実効性をもたないだろうということを、そこで述べた。それ以上に、そうした声明を出すこと、署名活動を行うことで、「事足れり」とする思いを抱くことが、より危険なことであると、つよく感じたからでもある。だから、私は署名活動には加わらなかった。いまも、その思いは変わらない。
そこで、今回である。学術会議の今後についての、政府の指針が公表された。その要点はいろいろあるが、会員選考に際して、会員外の第三者の意見を積極的に導入しようとすることが、もっとも問題となる。学術会議の自立したありかたが損なわれることは、あまりにも明白だからである。
それゆえ、学術会議が、再考を求める声明を出したのは、当然のことといえる。
さらにまた、今回も、さまざまな学会や協会が、学術会議の声明への賛同の姿勢を表明しつつある。
そのこと自体を咎(とが)め立てする理由はない。しかし、上に記したような、私の思いはここでも変わらない。多くの国民は、この問題に大きな関心を抱くはずはないと考えるからである。
今回公表された政府の指針は、それまでの政府の姿勢を見るかぎり、現れるべくして現れたものともいえる。安倍の政権下で、官僚組織を、首相官邸が一元的に管理することで、官僚たちに有無を言わせないような体制を作り上げたこと(以前は、官僚がある程度抵抗できた)を思い起こすべきだろう。
教育も同じこと、新自由主義路線の延長線上で、大学管理の総仕上げがなされた。小学校から積み上げた統制が、ついに大学にまで及んだ。教授会の権能を大幅に制限し、学長にはつよい権限を与え、しかも学長の選考には、大学構成員以外の第三者を入れる。大学構成員の投票結果は、参考にすぎなくなってしまった。このありかたは、今回の学術会議の会員選考についての政府指針と、軌を一にする。教育、研究も、すべて官邸主導のシステム下に置きたいとする、つよい意志がそこに感じられる。
この流れに抗するには、極言するなら、私たちの中から国会議員を出さないといけない。声明を出したり、署名活動をするのなら、そこまでの覚悟がなければならない。ついでながら、いまの野党は、まったく頼りにならない。
小泉―安倍と続いてきた新自由主義路線を、国民が支持しているかぎり、前途は暗い。サッチャー政権後のイギリスの状況は、今後の反面教師になるのかどうか。
たまたま、本年12月から、日本文学協会の委員長になり、協会として、学術会議の声明に賛同する意を公示したので、私なりの意見を、ここに記すことにした。それゆえ、これは、協会あるいは委員長としての意見ではない。もしも、学術会議の声明に対して、何らかの肯定的な反応が政府の側からあるならば、もとよりそれに越したことはないのだが。