雑感

「国家」の意志とやら

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ずっと同じことを繰り返し述べているように思うのだが、このところ全体主義の圧力がじわじわと強められていると感じる。いうまでもなく、「国家」の意志とやらが、一人一人の国民のありかたを、ある方向に否応なしに従わせようとしている、そうした圧力のことをいう。

もちろん、どのような組織であっても、大小を問わず、こうした全体主義的な圧力は、必ず存在する。会社勤めのような場合、その会社の上層部が不穏当な(時として不法な)やりくちを推し進め、それへの従属を部下に命じた場合、その部下はどうするのか。反対することが出来るのかどうか。出来なければ、不承不承それに従うか、会社を辞めるか、それ以外に道はないだろう。

これが「国家」の意志になると、対処のしようがない。逃げ道がまったくないからである。指導者と称する、いまの中国の習近平、ロシアのプーチン、北朝鮮の金正恩などが作り上げた体制が、何を国民に強いているのかを見れば、それは明らかである(だから、共産党の民主集中制は信用できない)。抵抗すれば拘束されて、監獄に送り込まれ、ひどい場合は直ちに処刑される。海外に逃亡しても、毒殺されたりするのだから恐ろしい。こうした「国家」の意志の現れようは、言うまでもなく、第二次大戦前のドイツや日本の場合も同じである。

とはいえ、これも前に記したことだが、ヒトラーの政権にしても、戦前の日本の政治体制にしても、その背後には、国民の圧倒的な支持があった。これもまた銘記しておく必要のある大きな課題である。
こうしたことを、なぜ繰り返し述べるのか。先週の“the japantimes alpha”の映画紹介の記事を読んで、いま強まりつつある全体主義の圧力に、どう抗すべきかを、ここでも考えたくなったからである。
その映画とは、塚本晋也監督の「Mr.Nelson,Did You Kill People」と題するドキュメンタリー作品である。ベトナム戦争の黒人帰還兵アレン・ネルソンが、自身の加害者意識からPTSDとなり、心理学者のカウンセリングを受けつつ、心の居場所を見出そうとする過程を記録したものという。映画の題名は、ネルソンが、自分の体験を小学校で話している際に、一人の小学生から投げ掛けられた言葉だという。
映画を見ていないから、ここから先の展開はわからないが、「お前は戦争で、誰かを殺したのか」というのは、実に重たい質問である。

ベトナム戦争にしろ、それ以前の朝鮮戦争にしろ、前線に向かわされたアメリカ軍の中で、黒人兵の戦死者の比率が白人兵に較べて圧倒的に多いことは周知の事実であり、そうしたところに大きな問題は残されているのだが(朝鮮戦争の、その問題を追及した松本清張の「黒地の絵」はいまも忘れがたい作である)、ここではそれは措いておく。重要なのは、戦争が、一人一人の個人に、直接の利害関係のない見知らぬ誰かを「敵」として殺すことを強制する、愚劣な行いにほかならないということである。

たまたま、この週のテレビで、「メーデー! 航空機事故の真実と真相」の再放送があり、そこで1983年に起こった、ソビエト連邦による大韓航空機撃墜事件が取り上げられていた。アンカレッジからソウルに向かっていた大韓航空007便が、操縦士の航法入力の設定ミスによって航路を逸脱し、二度に渡ってソビエト領内に侵入し、ために偵察飛行を疑ったソビエト空軍の戦闘機によって撃墜され、乗員、乗客269名が犠牲になったとする事件である。事件の真相は、ソビエト連邦の崩壊後に明らかになるが、ここで問題としたいのは、民間航空機である大韓航空機を撃墜したパイロットの存在である。パイロットは、上官の命令でこの航空機を撃墜したに過ぎないが、領空侵犯が偵察飛行のためではなく、航路を誤って逸脱しただけであるとする事実が明らかになった後もなお、「あれは偵察飛行であったから、撃墜するのはやむを得なかった」と、しきりに自己納得しようとしていたことが、パイロット本人の言として紹介されていた。あるいは、このパイロットには、PTSDのような症状も現れていたのかもしれない。269名もの民間人を殺したことになるから、そう信じ込まなければ生きては行けなかったのだろう。このパイロットもまた、アレン・ネルソンに突きつけられたのと同様の問いをずっと背負い続けざるをえなかったことになる。

そこで、これも以前のブログ「「否定と肯定」」で触れた映画「ゆきゆきて、神軍」に行き着くことになる。主人公である奥崎謙三は、戦争時の非道の行為を行った上官を、徹底的に糾弾しようとする。だが、上官は、いまは皆が平穏無事に暮らしているのだから、過去をほじくり返して、いらぬ波風を立てるべきではないと言い、戦争の罪悪はすべて蓋をして置くべきだと主張する。先のブログにも記したことだが、そこにうかがわれるのは、罪を犯した者も、そうでない者も、戦争が終わって落ち着いたところでは、すべてが無化されてしまうのだから、いまさらそうした過去など蒸し返すべきではないとする理屈である。つまりは「一億総懺悔」という、終戦直後に唱えられたお題目に見られる意識である。

しかし、国民の多くが、いかに戦争に協力する姿勢を示していたからと言って、赤紙一枚で戦場に駆り出された兵士(「敵」を殺したかもしれない)と、当時の全体主義「国家」を領導した「指導者」と称する連中の責任とを同一視することなど、絶対にできないはずである。さらに言えばあってはならないはずである。
だが、「一億総懺悔」のお題目は、こうした当然の理屈まで無化してしまった。靖国神社と称する怪しげな神社があるが、あそこに戦犯とされる連中までをも合祀したのは、そのお題目の具体的な現れと見ることもできる。靖国神社を怨霊鎮魂の神社と称したために、神社本庁から指弾されたどこかの神社の神官がいたが、もし靖国神社に意味があるとすれば、その目的は、「国家」の名によって、生きることを不本意に奪われた兵士たちの霊を鎮めるため以外にはありえない。「人を神に祀ること」とは、本来、その霊の祟りを鎮めるためだとするのが、宗教学の基本となる理解である。

そこで、となるのだが、いまやこの国の雲行きは、少しずつ怪しくなっている。高市某の政権が進めようとするこの国の方向性は、実に危うい、というか恐ろしい。その政権を支持する層が、若い世代に比較的多いことも、実に気がかりである。
そうした危うい方向に、この国を向かわせようとする全体主義的な傾向もますます強まっているから、これに抗することはますます難しくなっているのかもしれない。

先のブログ「日本 この愚民社会」で、元広島市長平岡敬(ひらおか・たかし)氏の「国家とは何なのか 命と生活守る装置」という言葉を紹介したように、「国家」の役割は、国民一人一人の「命と生活」を守るためのみにある。
外国からの侵略があるから自衛隊を正規の軍隊にして、国防費を増額せよなどというのは、実に愚劣な発想でしかない。侵略をいうなら、戦後の日本はずっとアメリカの植民地ではないか。これも以前のブログ「大人の知恵」に記したように、自衛隊の存在が憲法上あやふやな位置にあるからこそ(それこそが「大人の知恵」)、健全な状態が保たれているのであり、これを正規の軍隊にしてしまえば、一人歩きの暴走への道(戦前たどったのと同様な道)を開くことになる。
外国からの侵略への危惧があるというが、国民一人一人の「命と生活」がきちんと守られている国であるなら、そんな侵略など原理的にありえない。仮にあったとしても、そうしたしっかりとした国を、侵略する側がきちんと支配できるはずもない。

全体主義的な傾向が強まれば、国民一人一人の「命と生活」は必然的に脅かされる。何より自由な発言が許されなくなる。ここまで記して来たことでさえ、これも何度も繰り返していることだが、いまや「非国民」の言葉として糾弾されかねない。

私のこれまでの人生を振り返ると、職場が大学だったこともあって、自由に物を言うことができた。ところが、その大学も、いまや教授会の権限には、大きな足かせ・手かせがはめられ、国立大学の場合、総長・学長の任命については、文部科学省の意向が大きく働くようになった。
官僚の世界はもっとひどい。2014年以降、各省庁の課長職以上の人事が、内閣人事局の一元的な管理のもとに置かれることになったからである。そこで異論を述べることはできるものの、それが受け入れられなければ、口を噤(つぐ)むか辞職するかしかない。もしくは左遷か降格。中国やロシアのように、監獄に入れられたり、処刑されたりしないだけ、まだましなのかもしれないが、それでも危うい方向に向かっているとしか思えない。なぜ、こうしたことが、選挙の際の争点にならないのか。

大学闘争の時代の私たちは、個の自立ということをまず第一に考えた。吉本隆明の言葉だったかどうか判然としないが、「お前はお前しか代表できない」というのがあって、これこそは政治家に聴かせたい言葉だと、いまでも思う。個は個として互いに向き合うということで、その前提には確かな個の自立がなければならない。「国家」を背負うのは俺なのだから、ひたすら俺に従っていればいい、というようなありかたには、だから個の立場から徹底して抗して行かなければならない。

「国家」のために命を捨てたり、見知らぬ他人を殺したりするのは、どうあっても馬鹿げている。家族の為なら命を捨てることはあるかもしれないが。

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