雑感

二度寝・また寝

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今週(11月28日)のNHKテレビ「チコちゃんに叱られる!」を見ていたら、「二度寝が気持ちいいのはなぜ?」という疑問が取り上げられていた。人間は長時間睡眠をするようになったが、もともとは他の動物などと同様、分割睡眠をしていたので、そうした古い睡眠欲求が身体の記憶の中に残されており、それが二度寝あるいは昼寝の気持ちよさになって現れるのだとする説明があった。

ところが、私は二度寝も昼寝もできない。どんなに睡眠不足の時であっても、気持ちよいどころか、寝ようとしても、反対にどんどん目が冴えてしまい、却って苛々(いらいら)してくる。それで横になるのを止めるという仕儀になる。

大学時代、友人たちとよく旅行をした。貧乏旅行だから、テントを持参して、野宿をすることもあった。当時は、移動のため、バスによく乗った。5、6人の旅だが、私以外は、バスに乗るとすぐに寝てしまう。降車するバス停が近づくと、ずっと起きていた私が、皆を起こす。私が起きているのがわかっているから、皆も安心して寝られたということでもある。

二度寝も昼寝もできない理由は、私が極度の緊張型人間であることにつきる。友人たちと同宿する際にも同様なことがある。部屋が真っ暗にならないと、眠ることができない。だから、最後の一人が消灯するまで、寝床の中でずっと起きている。刑務所などでは夜も消灯しないというから、とても堪えられそうもない。前にもどこかに書いたが、健康診断などで血圧を測ると、測るたびにどんどん数値が上昇するが、それも緊張型ゆえであろう。
だから、「二度寝が気持ちいい」というのは、まったく想像もつかない。

二度寝と似た言葉に、また寝がある。また寝は、又寝で、辞書には「きぬぎぬの別れのあとで、再び眠りにつくこと」(『岩波古語辞典』)と説明される。辞書にはまた「きぬぎぬのありつる袖をかへすかな又ねの夢に君や見ゆると」(実国家歌合・九八、藤原敦頼)という歌も例示されている。「君や見ゆると」とあるから、男を帰した後の、女の立場で詠まれた歌になる。『続詞花集』の「かへりつるその曉に又ねして夢にこそ見れあかぬ名残を」(恋中・五五四、仁和寺宮(守覚法親王))は、詞書に「仁和寺宮にて人々、後朝恋心をよみけるに、わらはにかはりてよませたまひける」とあり、代詠ではあるものの、「後朝恋心」を男の立場で詠んだ歌であることがわかる。面白いのは、『古今著聞集』(第十一・好色)の例である。後白河院が、近習の公卿、女房たちとの雑談の折、皆に恋の懺悔話をさせるが、小侍従という女房が、ある貴人から密かに召し出され、一夜を共にしたものの、夜明け近くの鐘の音に、迎えの車に乗せられて、わりない思いのまま、仕方なく送り返されたとする話を語る。そこに「帰りきても、又ねの心もあらばこそ、あかぬなごりをも夢にも見め…」とある。この小侍従の思いは、女のもとから帰る男の心持ちと同じだろう。この貴人とは、実は、まだ在位中の後白河院のことだったのだが、それをすっかり忘れていた後白河院が、恥じて座を立ったとする結末になっている。これらの例から、また寝という言葉は、平安時代後期以降、歌語としても用いられていたことがわかる。

しかし、なぜまた寝をすることになるのか。それは、古来、女のもとに通う男は、夜明け前にわが家に戻らなければならないとする厳然たる約束があったからである(男女は逆だが、『古今著聞集』の場合も同様に見てよい)。
その理由は、男が女のもとに通うありかたが、神が巫女のもとに通う神婚伝承を模しているからである。古来、神の時間(夜)と人の時間(昼)とは厳然と区別されていた。神は神の時間である夜でなければ行動できなかった。夜明けを告げる鶏の鳴き声に、鬼たちが慌てふためいて退散する昔話があることを思えば、それは明かだろう。それゆえ、神を模す男も、夜が明ける前に、わが家に戻らなければならなかったのである。また寝をするくらいなら、もっとゆっくり女のもとにいればいいのにと思ったりもするのだが、そうしてはならないことが、いわば犯すべからざる約束として定められていたのである。

このように考えると、二度寝とまた寝は、重なりはするものの、本質的なところで少しく違っていることがわかる。
なお、男の通いが神婚伝承を模したものであることについては、月の光を浴びることの意味とも絡めて詳細に論じた古橋信孝氏の『古代の恋愛生活』(NHKブックス)が参考になる。

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