雑感

安楽死の問題

投稿日:2024年3月8日 更新日:

きわめて重い問題について記す。
重度の肺炎に罹って、ほとんど死にかけたことは、以前のブログにも記した。
救急搬送されて、ICU(集中治療室)に運び込まれたのだが、その際、医師から、場合によっては人工呼吸器の装着、あるいはECMO(エクモ、体外式膜型人工肺)に繋ぐことがあるかもしれないが、それを承諾するか否かを尋ねられた。ぼんやりとではあるが、意識もあったので、事の重要性を深く認識もせず、「お願いします」と答えた。
ICUで治療を受けている間に、人工呼吸器の装着、ECMOに繋ぐことが、実はきわめて重い選択であることを知り、先の「お願いします」を撤回することにした。

人工呼吸器にしても、ECMOにしても、実のところ、まったく軽く考えていた。人工呼吸器は酸素吸入器に近いものと思っていたし、コロナ禍でECMOの名はしばしば耳にしていたからである。ところが、詳しく聞いてみると、人工呼吸器は気管を切開して装着し、それを外すことは、基本的には難しいという。また、ECMOは生命維持装置であり、治療を目的とする装置とは違うという。ならば、これらを選択することは、そうした機器や装置にずっと縛られたまま、生を終えることを意味する。

そこで思い浮かんだのが、ALS(筋萎縮性側索硬化症)である。運動神経が徐々に侵されていく難病中の難病である。
20年ほど前、ALSになったのではないかと疑ったことがある。手が徐々に動かなくなり、物を持つのも不自由な状態になったからである。包丁など、握ることもできず、ぽろりと落とすほどだった。虎の門病院や東大病院の神経内科を受診し、筋電図(筋肉に針を刺す、ひどく痛い)を撮るなど、さまざまな検査を受けた。幸いALSではなく、パソコン(キーボード)の過度の使用が原因の胸郭出口症候群であることがわかり、その後、針治療を一年ほど続けて、やっと手が動くようになった。

迂闊なことだが、その時まで、神経内科がどんな病気を対象とする診療科なのかを知らずにいた。精神科と類似の科のように思っていたからである。神経内科は、ALSのような重度の疾患の患者が多いから、一人あたりの診療時間も相当に長い。受診に際して、二時間待ちなどは、しばしばである。虎の門病院の神経内科で診てくれたN先生は、ALSを心配する私に、開口一番、「多田さん、あなたはそんなに長生きしたいですか」と言われた。その時は、『万葉集全解』の原稿作成に追われていたから、「これを完成させるまでは、生きていたい」と答えたように思う。後(あと)で、東大病院のK先生に、そのやりとりを話したら、「N君は、口が悪いから」と仰った。それで、K先生が、N先生の先輩らしいことがわかった。

その折、ALSについて、いろいろと調べた。難病中の難病であることも、その時知った。基本的に治療法がなく、運動神経の機能が徐々に侵され、最後には身体をまったく動かすことができなくなること。一方、意識ははっきりとしたままで、感覚機能などはそのまま維持されることなどを知った。寝たきりになっても、床ずれは生じないとあったように思うが、これは記憶違いかもしれない。話す機能も次第に失われ、周囲に意志を伝える際には、指が動く間は端末装置(キーボード)を利用したパソコンなどの画面上で、指が動かせなくなったら、目の動きに反応する同様な装置を利用して行うのだという。目が動かせなくなったら、意志を伝える方法は、おそらく失われてしまうのだろう。

ALSでもっとも問題となるのは呼吸機能で、これも運動神経が支えだから、最終的には呼吸することが出来なくなる。この段階で、ALSの患者には、人工呼吸器を装着するかどうかの選択が迫られる。冒頭に記した、気管を切開して装着する人工呼吸器である。当初、ここに思いが及ばなかったのは、先にも述べたように、私の場合、酸素吸入器に近いものと思っていたからである。
ALSでは、人工呼吸器の装着はしないと患者が決断すれば、そのまま死を迎えることになる。だが、さらに重大なのは、一度(ひとたび)、人工呼吸器を装着したら、それを外すことは基本的には許されないことである。患者本人が望んだとしても、許されない。手足が動かせない以上、患者自らが外すことはできないから、それができるのは医療関係者(あるいは家族)以外にはいない。だが、もしそれを行えば、場合によっては殺人罪(嘱託殺人の罪など)に問われることになる。
それゆえ、ALS患者にとって、人工呼吸器を装着するかどうかは、生と死を分かつ大きな決断になる。

こんなことを、なぜ長々と記して来たのか。それは、先日(3月6日)の「朝日新聞」朝刊の記事を目にしたからである。ある医師が、ALS患者の依頼によってその患者を安楽死させたことが「嘱託殺人」にあたるとして、有罪判決を受けたとする記事である。
記事を目にする限り、この医師の行いが有罪となるのは止むをえないことのように思われる。安楽死の依頼がSNSを利用した安易なものであること、この医師がALSの専門医でもなく、その患者にきちんとした診察も行ってはいないというから、謝礼目的の「嘱託殺人」と判断されても致し方のないことかと思う。

とはいえ、こうした医師が現れるのも、安楽死を認めないこの国の制度上の欠陥があるからに違いない。興味深いのは、右の「朝日新聞」の記事に、この判決を下した裁判長が述べた指摘(判決文内の指摘だろう)が、次のように紹介されていることである。ALSのような患者による嘱託を全て有罪とするなら、「嘱託に応える医療従事者は現れず、結果的に患者に耐えがたい苦痛や絶望を強いる」と述べた上で、嘱託殺人には問わないケースとして「①治療や検査を尽くし、他の医師の意見も聞いて慎重に判断②患者に可能な限り説明し、家族等らの意見も参考に患者の意志を確認③苦痛の少ない方法を用いる④事後に検証できるよう一連の過程を記録化する――などが最低限必要」と、裁判長はこのように指摘したとある。
なかなか核心に踏み込んだ指摘であって、安楽死の容認にもつながるような内容であるように思われる。
だが、先にも述べたように、ALS患者に装着された人工呼吸器を外すことは、患者の意志を受けた結果ではあっても、場合によっては殺人罪(嘱託殺人の罪など)に問われる。それが現実である。

安楽死を認めないのは、ALSの場合、その患者団体のような存在があるからだろう。右の裁判の判決の際にも、それを伝えるテレビのニュース画面に、そうした「嘱託殺人」は許さないとする患者団体を代表する患者の姿が映し出されていた。もし、安楽死が認められれば、自分たちもまたそうした死を強制されることになるというのが、その言い分である。
ALSの場合、その言い分が、いまは「正しい」ものとされている。興味深いのは、先の判決について、安楽死の容認につながるかのような裁判長の指摘を載せた「朝日新聞」が、その「社説」では、一転、それとは正反対に、患者団体の主張に沿った意見を掲げていることである。そのタイトルには「難病患者殺人 共に前を向ける社会に」とある。「今回の事件は安楽死の議論に安易につなげるべきではない」として、「死の自己決定権」が強調されかねないとする患者団体の主張を肯定し、「求められるのは、苦悩する患者を孤立させず、生きる意味を実感できる環境を整えることだ」と述べる。実に軽薄な意見だと思う。社説を書いた記者(編集委員というのだろうか)のレベルの低さが現れている。そんな綺麗事では済まない現実に、思いが及んでいない。

患者団体が何と言おうと、「死の自己決定権」は重要である。法で規定する以前の、人間にとっての生得的な権利だからである。それゆえ、それにもとづく安楽死は、当然ながら認められなければならない。
ただし、ここで強調して置かなければならないのは、そうした「死の自己決定権」を主張することは、「生きる権利」を主張することとは、決して二律背反ではないことである。患者団体は、「生きる権利」が脅かされることを恐れている。それゆえ、その主張は「死の自己決定権」を否定することに向かう。だが、その主張は、「死の自己決定権」を主張する側にとっては、現状においては、むしろ暴力的なものになっている。
私がALSではないかと心配した20年前は、患者団体は、ALS患者のホスピス入所に対しても反対していた。いまは、ALS患者を受け容れるホスピスもあるらしいから、それは一つの前進であろう。

とはいえ、安楽死はまだ医学界のタブーであるらしい。自殺を絶対的な悪と見るような風潮が世間に蔓延しているから、それにつながる安楽死も認めてはならないとする理屈なのだろう。
半世紀近くも前のことだが、東大医学部附属看護学校の「国語」の講師を五年ほど勤めていたことがある。入試問題の作成にも関与したが、入試の面接にも立ち会った。そこで、驚いたことがある。安楽死をどう思うかという質問が出され、それに対して肯定的な意見を述べた受験生は、学科試験の点数がどんなに高くても、不合格の判断が下されたからである。看護にあたる者が、安楽死を肯定するような意識をもつべきではないというのが、その判断の理由らしい。
スイス、オランダ、ベルギーなどでは、安楽死が、すでに合法化されている。日本も当然そうあるべきだと思うが、現実はなかなか難しい。だからこそ、追い詰められた患者は、先の「嘱託殺人」の罪に問われたような怪しげな医師に頼ることになるのだろう。どちらにとっても、大いなる不幸と言わねばならない。

山上憶良の生涯とその作品について論じた小著『山上憶良 生きる意味を問い続けた歌人の表現思想』(花鳥社)を昨年末に刊行したが、憶良こそ、死を徹底して憎み、己の病がどんなに重くとも、生きることにこそ大切な意味があると信じ、そうした生を身をもって貫き通した歌人にほかならない。憶良は、「もし足切り鼻削(そ)ぎの刑を受けることで死期を延ばすことができることを知れば、きっと甘んじてその刑を受けるだろう」(「沈痾自哀文」)とまで述べている。
この憶良の思いは実に尊い。小著にもそのように記した。だが、機器や装置に繋がれたまま、ただ生かされているだけの生など、私は拒絶したい。安楽死を肯定する理由は、そこにある。

以上の大半は、入院中に考えていたことだが、ALS患者の「嘱託殺人」の判決を伝える記事に接したことを機会に、ここにまとめておこうと思ったような次第である。当然ながら、異論・反論はあるに違いない。ALSの現状について、あらためて調べ直していないので、誤認、誤解もあるいはあるかもしれない。

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