研究

今日は大晦日

投稿日:2025年12月31日 更新日:

今日は大晦日である。昨日のうちに神棚に鏡餅をお供えし、門口に小ぶりの松を飾って新年のお祝いにした。
古来「一夜飾りはいけない」とされるから、それで昨日のうちにやっているのだが、それではなぜ「一夜飾りはいけない」のか。

ここにはおそらく、一日の始まりをめぐる古い民俗的な心意があるのではないかと思う。一日の始まりを夕日の降(くだ)ちに置くのが、古来の心意であった。このことについては、その郷里、和歌山の「一昨夜を昨晩」と呼ぶ習わしを紹介した上で、それが「日没を通用日の始まりとした遺習」であることを、諸外国の類似の例と比較しながら明らかにした南方熊楠の論(「往古通用日の初め」)が、最初にそれを指摘した論ではないかと思う。
その後も柳田国男が、「我々日本人の昔の一日が、今日の午後六時頃、いはゆる夕日のくだちから始まつて居たことはもう多くの学者が説いて居る。それ故に今なら一昨晩といふところを「きのふのばん」といふ語が全国に残り、又十二月晦日の夕飯を、年越とも年取りとも謂つて居るのである」(「日本の祭」)と説いて、一年の切り替わりが、やはり大晦日の夕べにあったことを明らかにした。

以前のブログ「門松のこと」にも記したように、大晦日の夜には歳神が来臨する。ただし、そこにも記したように、その歳神の原型は、祖先の霊(祖神)にほかならない。いまは盆だけになったが、祖先の霊は年の暮れにもやって来た。古代の仏教説話集『日本霊異記』には、大晦日にやって来る祖先の霊を、精霊棚(しょうりょうだな)を用意して祀った話(上巻十二話、下巻二十七話)が見える。『徒然草』十九段には、「つごもりの夜、いたうくらきに……なき人のくる夜とて、魂(たま)まつるわざは、このごろ都にはなきを、あづまのかたには、なほすることにて」とあり、兼好の頃には、大晦日に祖先の霊を祀る習慣は、都ではすでに廃(すた)れてしまったらしいことがわかる。

右は、先のブログの再説だが、ここで興味深いのは、『日本霊異記』の上巻三十話で、そこにはあの世の霊が、正月一日、五月五日、七月七日にやって来るとある。七月七日は盆に対応するが、興味深いのは、正月一日である。夕日の降ちが一日の始まりであるなら、大晦日の夕べは正月一日と重ねて考えることができるから、これも大晦日にやって来る霊と同じと見てよい。こうしたことからも、新年の歳神を迎える用意を大晦日にしてはならない理由が確かめられるように思う。

とはいえ、一日の始まりを夕日の降ちとすることは、民俗的な心意として残されてはいても、実際の日常生活の場では、夜明けをこそ一日の始まりとする意識が、むしろつよく見られたのではないかと思う。ずいぶん以前、『万葉集』の注釈に従事していた際、そうした問題に突き当たり、思案したことを思い起こす。たとえば、次の一首。

高麗錦(こまにしき)紐の片方(かたへ)ぞ床(とこ)に落ちにける 明日(あす)の夜(よ)し来(こ)むと言ひせば取り置き待たむ(巻十一・二三五六)
(現代語訳:(女のもとに通って来た男の)高麗錦の紐の片方が寝床に落ちていたことだ。「明日の夜にも来よう」と言うのなら、取って置いて待っていよう)

柿本人麻呂歌集収載の旋頭歌(せどうか)である。一日の始まりを夕日の降ちと見る立場からすると、「明日(あす)の夜」は「今夜(こよひ)」と等しいことになる。とはいえ、私の注釈では、逢った夜を「今夜(こよひ)」と意識していると見て、現代語訳ではそのまま「明日の夜」とした。その理由は、「南方(熊楠)、柳田(国男)説は、特殊な状況の説明に過ぎず、一般化しえない」と考えたためだが、さらに付け加えるなら、男は女のもとを夜のうちに去らねばならず、男が女の門口を出るまでは、夜の時間がずっと続いており、それを女は「今夜(こよひ)」と意識したはずだと考えたからである。その場合、すっかり夜が明けてからが「明日」になるから、「明日の夜」は、南方、柳田説に従う立場での「今夜(こよひ)」と、意味するところは同じになる。さらにいえば、『万葉集』においては、「今夜(こよひ)」「今宵(こよひ)」「明日(あす)」という言葉は、ほとんどの場合、夜明けを一日の始まりとする意識で用いられている。「一般化しえない」としたのは、それゆえでもある。

ただし、そう簡単にはいかない例もある。『万葉集』ではなく、さらに時代の下った『紫式部日記』の例である。寛弘五年(一〇〇八)十二月二十九日条の記事である。

しはすの廿九日にまゐる。はじめてまゐりしも今宵の事ぞかし。

紫式部が、中宮彰子のもとに初出仕した日を回想した記事である。紫式部の出仕は、一般には寛弘二年とされる。この記事ではそれが十二月二十九日の宵であったとある。『日本暦日原典』によれば、寛弘二年の十二月は小の月とされるから、十二月二十九日は大晦日にあたる。その宵に初出仕したというのは、現在の意識からすると、おかしな感じがする。だが、ここに大晦日の夕べはすでに正月一日であると考えるとどうなるか。その場合は、新年の初めに出仕したということになりはすまいか。そんなことを思ったりもする。もっとも、紫式部の初出仕を、寛弘三年とする説もあり、その場合、十二月は大の月になるから、二十九日は大晦日ではなくなる。

この『紫式部日記』の記事から、いつも思い起こされるのが、近世の儒学者林羅山の残した逸話である。「除日に講起す」という題で、よく知られた話である。儒学者の伝を集成した『先哲叢談』に収められている。

歳暮、菅得庵(かんとくあん)、羅山に謂(い)ひて曰はく、「余未だ『通鑑綱目(つがんこうもく)』を読まず。請ふ、先生、明春を以て、余が為に之を講ぜよ」と。羅山曰はく、「子の心、誠に之を求めば、何ぞ来年を待たん」と。即ち除日(大晦日)を以て講起す。

菅得庵(菅原玄同)が、ある年の大晦日、林羅山に、明春になったら、『通鑑綱目』を講義してほしいと申し出たところ、羅山は、誠の心をもってそれを望むなら、新年を待つなどとは言わずに、いますぐ講義を始めようと言って、実際にそうしたという話である。ごく卑俗に言えば、「思い立ったが吉日」といったところだろうか。この話は、大昔、私の学んだ、高校の『漢文』の教科書にも載っていた。                             この話は、しかし、紫式部の初出仕とは違い、大晦日はいまの私たちが意識する大晦日と同じだろう。そこには、夕日の降ちを一日の始まりとするような意識はおそらくないはずである。

以上、あれこれ述べて来たが、「一夜飾りはいけない」という言葉の中に、一日の始まりをめぐる古い民俗的な心意が残されているのは間違いない。そんなことを、大晦日を迎えて思っている。

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