研究

憎まれ口 併せて益田勝実氏「源氏物語の荷ひ手」について

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以下に記すことは、現在の日本文学の研究状況に対する批判的な慨嘆である。当然ながら、反撥も大きくあるに違いないし、そうでなくとも年寄りの偏屈な僻みの言葉と受け取られるかもしれない。それゆえ、自嘲を込めて標題を憎まれ口とした。

大きな状況として、文学部の学問などもはや不要だとする世間的な風潮が強まっている。このことについては、このブログでも何度か触れた。文学部の学問分野の中でも、文学研究はずいぶんとひどい状況になりつつある。日本文学の研究も同じである。
だが、ここで述べたいのは、そのことではない。現在の日本文学の研究者、とくに若手の研究者の視野が極端に狭くなっていることへの批判である。私が目にするのは、私の専門領域である古代文学の研究成果にほぼ限られるから、あるいは違った見方もあるのかもしれないが、それでもこの批判は、現在の日本文学の研究全体に及ぶのではないかと思っている。

視野が極端に狭くなっているとは、どういうことか。要は、研究者のまなざしの届く範囲が、ほぼ仲間内に留まり、それを越えたところには及んでいないということである。ある研究者が、ある対象についての研究成果を発表したとする。ところが、引用されるのは、周囲の仲間の論ばかり。なぜこの人のこの論を引用しないのか、と思うことがしばしばである。私もまた、不当に無視された、と腹立つこともあったりするのだが、最初に記したように、これもまた偏屈な僻みの現れなのかもしれない。しかし、多くの場合、若手の研究者の目が、仲間内の論にしか向いていないためだと思われる。

大昔の論になると、さらに引用されることは少なくなる。いま、老いの仕事のまとめの一環として、『更級日記』の評釈に取りかかっていて、ほぼ半ばあたりまでたどり着いたところである。物詣をめぐる記事がいくつか現れるのだが、母が「いみじかりし古代の人(ひどく古風な考えの持主)」なので、私をなかなか物詣に連れて行ってくれないと、慨嘆する場面が現れる。

ここで、問題となるのは、物詣に消極的であることが、なぜ「古代の人」と評されることになるのかである。ここで、思い起こされるのが、益田勝実氏の「源氏物語の荷ひ手」と題する論である。戦後まもなくの頃、東大の国文学科の大学院生、修了生を中心に組織された研究会である日本文学史研究会の機関誌「日本文学史研究」11号(昭和26年4月)に掲載された論である。この「日本文学史研究」は、ガリ版刷りの雑誌である。
益田氏は、この雑誌についての思い出を回想して、以下のように語っているが、いかにも戦後の一時期、日本文学の研究が新たな道を進み始めるようになった頃の熱い思いが伝わって来る文章である。

ふと、「抒情以前の抒情」という語で記紀歌謡をとらえる気持になったのは、五一年だったか、五二年だったか、前に長いこと借りて住んでいた、南多摩の山の中の古寺本堂の板の間でだった。鉄筆で、ガリ版の同人誌『日本文学研究』の原稿を、いきなり原紙にガリガリと書いていた時ではなかったか(益田勝実『記紀歌謡』、日本詩人選1、筑摩書房)。

「日本文学史研究」は、東大の国文学研究室に所蔵されていたので、「源氏物語の荷ひ手」も、大学院生の頃に読んで、そのコピーはいまも手許にある。
この論自体は、当時の思潮ともいうべき歴史社会学派的な色合いが濃く現れているから、『益田勝実の仕事2』(ちくま学芸文庫)に再録されているとはいえ、近年、これを引用した論にはほとんどお目に掛からない。

だが、この論には、いまもなお教示を受けるところが多々ある。その一端が、すでに述べたように、『更級日記』において、物詣に消極的な母を「いみじかりし古代の人」と呼んでいるところである。実のところ、女が自由に物詣をするようになったのは、比較的新しい時代のことだった。『枕草子』「説経の講師は顔よき」の段に、以下のようにある。

(いまは、賤しい女でさえ説経を熱心に聴聞するようであるが)、さればとて、はじめつかたは、徒歩(かち)歩(あり)きする人はなかりき。たまさかには、壺装束(つぼさうぞく)などして、なまめき化粧(けさう)じてこそはあめりしか。それも物詣などをぞせし。説経などにはことに多く聞こえざりき。この頃、そのをり指しいでけむ人、命長くて見ましかば、いかばかりそしり誹謗(ひばう)せまし。

本文にいささか問題のある箇所だが、ここは日本古典文学大系本の校訂に拠り、さらに一部を漢字に改めた。これによれば、女が僧の説経を熱心に聴聞するようになったのはごく最近のことで、それも歩いて寺まで赴くようなこともなかった。壺装束をして物詣するのも、ごくたまさかのことだった、というのである。

益田勝実氏は、「源氏物語の荷ひ手」の中で、右の記事を念頭に置きつつ、以下のように述べている。

賊難の予想される奈良坂や関山を越えて女性たちが初瀬や石山詣をもはじめた事は、清少納言にとっては、さして遠い昔の事ではなく、回想の範囲の過去であったわけである。

ならば、『更級日記』の作者が、物詣に消極的な母を「いみじかりし古代の人」と評している理由も明らかになる。こうした母の姿勢こそ、かつての女たちの「古風なありかた」を窺わせるものだったからである。

益田氏は、そこからさらに、女がこうして物詣などに出向くようになったことを、女が家の羈絆を脱して、自己保持しうる一面を有することになった現れ、個人として振る舞う方向への第一歩と捉え、それこそが王朝女流文学が形象される契機になっているとも述べている。いまなお傾聴すべき指摘といえよう。

さらにここでは、益田氏がこの論で述べている、もう一つの重要な点についても紹介しておく。益田氏は、王朝女流文学の担い手が、多く受領階級に属する女たち、受領の女(むすめ)であることを指摘する。さらに、その受領の女に、二つの類別があるとする。以下、それを私なりにまとめてみる。
①宮仕え女房(摂関型女房)  清少納言、赤染衛門
現実的処世魂、社交的教養を身につける。従って現実肯定、現実本位となる。現実の宮廷が美の基準となる。それゆえ男性と隔絶せぬ教養、漢才、歌才が必要とされる。
②家の女性  紫式部、道綱母、孝標女
こちらが王朝女流文学の真の母胎になる。彼女たちは、物語への憧憬を抱くが、そうした憧憬の中で、物語的現実としての宮廷生活、上流貴族社会への幻想が生まれる。それゆえ、物語そのものが美の基準となる。しかし、それが憧憬であり、幻想である以上、現実に直面した場合、裏切られることになる。その場合、物語との対決に向かうか(『蜻蛉日記』)、新たな文学の世界を拓いて、物語の深化に向かう(『源氏物語』)ことになる。

この益田氏の論は、すでに述べたように、歴史社会学派的な視点が顕著だから、もはや過去の古びた成果に過ぎないとする見方もあるかもしれない。だが、右に示したところは、いまなお大きな示唆を含むものとして受けとめるべきだと思う。

最後に一言。『更級日記』の作者は、②家の女性に属するが、物語への憧憬が現実に直面して挫折した際、宗教的世界に縋ろうとはするものの、ついにはそれにも裏切られ、生の実相を見据えた上で、やがて虚無の世界と対峙することになる。作者が『夜の寝覚』の作者であったとするなら、紫式部と同じく、物語の深化に向かったと捉えることもできるのではあるまいか。

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