大宝二(702)年、山上憶良は、遣唐使の一員となって、唐に向かった。遣唐少録という、遣唐使の中では、最下級の役目ではあるが、歴とした使節の一員である。その長である遣唐執節使には、粟田真人(あわたのまひと)が任じられた。
唐から帰国する際、宴が催された。そこで、憶良が歌った歌が、『万葉集』に残されている。
いざ子ども早く日本(やまと)へ大伴の御津(みつ)の浜松待ち恋ひぬらむ
(訳)さあ者どもよ、早く日本に帰ろう。大伴の御津の浜松も、その名のとおり、きっと待ち恋うているだろう。
歌の内容から見て、憶良が一行の長である粟田真人になり代ってこの歌を作ったらしい。それは、冒頭の「いざ子ども」が、宴の場などで、部下など目下の者に呼び掛ける言葉だからである。『万葉集』には、そうした「いざ子ども」の例が、数例見られる。
以上の内容は、昨年末に刊行した『山上憶良』(花鳥社)に記した。たまたま、知友のH氏から電話をもらい、この「いざ子ども」の呼び掛けが話題になった。その時、戦後すぐ、日本に駐留する米軍将兵に、マッカーサー元帥が、“Boys!”と呼び掛けていたことが、何かの本に書いてあったことを思い出したのだが、何の本かはすぐには思い浮かばなかった。
記憶をたどって、やっと見つけた。金田一春彦『日本語』(岩波新書の青版)である。そこに、次のようにある。
終戦になって、マッカーサー元帥が日本に来たとき、進駐しているアメリカの将兵に対してラジオを通じて放送をおこなったのを聞いたが、開口一番何と言うかと思うと、
Boys!
と言ったのはおもしろかった。もし、これが日本の司令官だったら何と言ったろうか。
忠勇無双の我が国軍の将兵に告ぐ……
とでも言いそうだ。
なるほど、部下に“Boys!”と呼び掛けている。まさしく「いざ子ども」である。記憶の中では、コーンパイプを咥(くわ)えて、厚木飛行場に降り立った際に、マッカーサーが発した言葉かと思っていたのだが、ラジオの放送だとは思わなかった。
金田一先生は、「もし、これが日本の司令官だったら何と言ったろうか」とも述べていて、その例も示しているのだが、軍国主義の時代のずっとずっと昔、『万葉集』の時代には、部下に「いざ子ども」と呼び掛ける文化があったことになる。そこがまことに興味深い。
大学院時代、金田一先生の講義を受講したことがあるので、ここでは「先生」の敬称を用いた。金田一先生の博識ぶりは、先の『日本語』(なお、二冊本に増補された黄版の岩波新書は、青版より質が落ちる)にも明らかだが、講義も同様に面白かった。ただ、ずぼらなところもある先生で、成績をなかなか付けてくれず、国語研究室の助手が困っていたことを思い出す。
あの時、「天正狂言本」(筋書程度ではあるが、最古の狂言の台本)の、東国語の表現要素について調べたレポートを提出して、ずいぶん遅れて「優」を頂戴したのだが、あのレポートはどうなってしまったのか。廃棄されたに決まっているが、そこに記した内容が、いまも気になっている。