母乳や乳房を意味する「おっぱい」は、さほど古い言葉ではないらしい。『日本国語大辞典』は、初出例を掲げることを原則とするが、そこには幕末期の随筆『於路化於比(おろかおひ)』の例が示されているから、近世末期以降に現れた言葉だろう。幼児語と見てよい。語源にも諸説あり、右の『於路化於比』は「ををうまい」の約言と記しているが、これはあまり当てにはならない。語源は未詳とせざるをえない。
以下に記すのは、はるか大昔の、我が家の娘の赤子時分の話である。娘はまったく母乳のみで育った。生後しばらくして、粉ミルクを与えようとしたが、頑として口を噤(つぐ)み、少しも飲もうとしない。何度も飲ませようとしたが、駄目である。それで根負けして、ついに最後まで母乳で育てることになってしまった。だから、粉ミルクを買ったのは、一缶だけである。
そろそろ離乳という頃になっても、娘はなかなか「おっぱい」を離そうとしない。こういう時には、乳房に恐い絵や×印を描いたりして、乳離れをさせるという記事を、どこかで読んだ記憶があったが、それはしなかった。娘が「おっぱい」を離さないでいると、家内が「めっ、めっ」と叱った。ところが、「めっ、めっ」と繰り返しているうちに、娘が回らぬ口で、「めんめ、めんめ」と言うようになった。「めっ、めっ」は、叱る言葉なのに、叱り方が優しすぎたのだろう。それで、娘は「めっ、めっ」を「おっぱい」のことだと思い、「おっぱい」が欲しいというつもりで、「めんめ、めんめ」と言ったらしい。それがわかると何ともいじらしくなり、その後もしばらく母乳を飲ませることになってしまった。爾来、我が家では、「おっぱい」のことを「めんめ」と呼ぶようになった。だから「めんめ」は、我が家だけの隠語である。
ついでに一つ余計なことを。「おっぱい」の語源が不明なのは先にも述べたとおりだが、これも大昔、オーパイという名の乳酸菌飲料があった。西日本のどこかの会社が販売していたらしい。カルピスによく似た、濃縮タイプの瓶入りである。この名は、当然ながら、「おっぱい」を連想させる。それがねらいであったのかもしれない。もっとも、販売元はそれを否定していたようではあるが。それにしても、このオーパイ、一体いつ頃まで売られていたのだろう。