研究

論文の査読・続

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ずいぶん以前に、「論文の査読」と題して、論文の査読の根底にあると思われる問題について記した。そこで書き足りなかったことを、以下に述べてみたい。

私もこれまで少なからぬ数の論文の査読をしてきた。そのほとんどは、所属する学会などに投稿された論文である。
査読の結果は、そうした学会などの編集委員会とか常任理事会とかに報告され、そこでその採否が決定される。査読者が複数の場合、採否で意見が分かれた際には、さらに別の査読者に依頼し、その意見を踏まえて判断するのが通例である。

ここで私が問題としたいのは、論文の採否が決定されると、査読者の責任が、基本的に無化されてしまうことである。採否を決定した責任の一切は、結果として、編集委員会とか常任理事会とかが負うものとされるからである。このことが、先のブログでも問題とした、査読者の匿名性とかかわっている。

だが、これは実に不合理である。私もまた、そうした編集委員会などの一員として、論文の採否決定に関与して来た。ただ、自分が直接読んでいない論文について、ましてや自分の専門領域とは異なる論文について、査読者からいくら丁寧な報告を受けても、その見解が妥当であるかどうかの判断は、正直なところできない。あきらかな欠陥があり、これは不採用でよいと納得できる場合もあるが、多くはまずわからない。査読者の見解、その報告を信ずるしかない。

その査読者の見解も、査読者に応じてさまざまである。査読者の学んだ(教わった)方法(そこに学統も含めてよい)、査読者の拠る説とは異なる内容である場合、それを端(はな)から否定するようなこともある。それらは、査読者の主観に大きく傾いた査読といえようか。
査読の目的をはき違えていると思われる場合も少なからずある。査読の目的は、すぐれた着眼点のある、今後の研究に資するような論文を採用するところにあるはずだが、査読者によっては、あら探しに徹しているとしか思われないような報告が述べられることもある。よいところは見ずに、悪いところだけを見る。落とすことを目的とする(結果としてそう評してもよい)入学試験などと、査読を一緒にしてもらっては困る。まずは、よいところを評価するのが査読だろう。一流のすぐれた研究者の論文であっても、あら探しをすれば、一つや二つの欠点は必ず見つかる。

そこで述べたいのは、査読は、どこまでも査読者の責任に尽きるということである。その責任を編集委員会とか常任理事会とかに負わせるのは、きわめて政治的(悪い意味での)なありようだといえる。査読者の責任は無化され、誰が主体かも判然としない編集委員会などにそれを負わせるというのは、組織の論理ではあろうが、実は無責任の極みでもある。ある役人が起案した案件を、その上役たち、さらにはその最上位の職にあるものの責任と移し替えていく、役人社会のシステムと同様のありかたである。そのシステムでは、職位が上に行くに従って、その案件に対して負うべき責任は相対的に軽くなる。査読者の責任が無化されるありかたは、これに等しい。そうした組織の論理を、査読に当てはめてよいのかどうか。

右に述べたことは、査読の結果が不採用である場合の事例になるが、採用になる場合でも、おかしなことはある。査読者と投稿者の関係、投稿者が査読者の上位者(学会の有力者あるいは査読者の先輩等等)である場合、査読者の忖度が働いていると思われることが、まれではあるがあったりもするからである。報告を聞いていて、これは不採用だと思ったら、結論が採用で驚いたこともある。

そこで、以下は、以前のブログ「論文の査読」につながる。査読は、査読者が誰であるのかも含めて、査読の一切は、投稿者の求めに応じて、開示されるべきだというのが、そこでの主張である。繰り返すように、査読の責任は、すべて査読者にあると考える。そこから先は、以前のブログを見てほしい。

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