研究

上代文学史稿(三)

投稿日:

3 漢詩文の世界
●古代国家と漢文
古代の日本人が独自の文字を発明することができず、表記の手段として外国語である中国語の文字(漢字)に頼らなければならなかったことは、高度な中国文化の圧倒的な影響下に置かれたこの国の必然であったともいえる。
漢字は表意文字である。このことが、漢字を用いて表記する漢文(書記言語としての中国語)を、中国本土はむろんのことその文化の影響下にあった国々すべての共通語とすることに役立ったのである。中国の内部でも話し言葉は地方ごとに違っていたから、そこでもそれらを結ぶ共通語がもとめられた。漢文はその目的に応ずるものとして広く流通した。中央からの命令にせよ、地方からの上申にせよ、それらはすべて漢文による文書として伝達されることになった。それが、律令制度維持の根幹をなす文書中心主義を生み出すことにもなった。
日本は、倭と呼ばれた時代から、国家の存立の保証を中国の王朝によって与えられてきた。そのための上表文も漢文で記された。『宋書』倭国伝には、順帝の昇明二年(四七八)、倭王武(雄略天皇か)が献じた上表文が収められている。四字句を連ね、漢籍からの引用を随所に示すすぐれた文章である。この時代、漢文による相当に高度な文章が記されていたことがわかる。
その後も大陸との接触が続く中で、日本人は徐々に漢文を操ることに習熟していく。遣隋使が派遣された推古朝になると、漢文による記録が頻出する。その多くは金石文として伝えられるが、推古四年(五九六)の『伊予道後温泉碑文』(『釈日本紀所引』)は、六朝風の四六駢儷体を用いた美文で綴られており、高度な達成を示している。
国家意識の高まりとともに、歴史書の編纂も行われるようになり、現存しないが、「天皇記」「国記」などの記録類も作成された。聖徳太子撰と伝えられる『十七条憲法』や『三経義疏』は、成立に疑問がもたれるものの、ほぼ同時期の漢文によるすぐれた成果といえる。推古朝の漢文表記には、和語(日本語)を意識した箇所が残されている。外国語である漢文を利用しながら、和語のありかたを保存しようとする工夫が始まっているのを見ることができる。『元興寺露盤銘』や『法隆寺金堂薬師仏光背銘』などの金石文には、一部ではあるが、和文化した語序や和語独自の助字表記が見られ、和化漢文体とも呼びうるような新たな表記が模索されている。漢文の受容は、当初からそれを用いて和語を記録しようとする意識を呼び起こしていたことを忘れてはならない。そうした中から、後の万葉仮名のように、漢字の音訓を利用して和語を書き表す方法が案出されることになっていくのである。
●近江朝の漢詩文―『懐風藻』
大化改新は、中国の政治制度にならい、新たな中央集権の律令国家の成立を目指すところに主たる目的をもっていた。それが具体化するのは、天智天皇の近江朝になってからのことである。法制度の整備がすすめられ、その一部は『近江令』として完成する。『庚午年籍』と呼ばれる戸籍も作られ、以後の基本となった。歴史書や地誌の本格的な編纂は次代以降のことになるが、それらも原則的に漢文で記された。律令体制においては、有力貴族も律令官人として組織され、政治制度運用のためには、漢文に習熟していることが必須の要件とされた。
この時代になると、漢文による文雅の世界が形成されるようになる。近江京が置かれた琵琶湖のほとりの高殿では詩宴がしばしば催され、数多くの詩が詠まれた。近江朝以降に詠まれた詩百二十編を収めた漢詩集が『懐風藻』である。
『懐風藻』は、現存するわが国最古の漢詩集である。成立は、序文によれば、天平勝宝三年(七五一)十一月。編者は、淡海三船など諸説あるが、未詳。近江朝に同情的な姿勢をもち、長屋王に近い立場にいた知識人であったらしい。『懐風藻』以前にも、藤原宇合の佚名詩集や、石上乙麻呂の『銜悲藻(かんぴそう)』など個人の詩集が存在したが、これらは現存しない。
『懐風藻』の序文は、わが国における漢詩文の濫觴に筆を起こし、近江朝を文雅の雰囲気に満ちた聖代として称える。百編を超える詩が作られたにもかかわらず、壬申の乱によって湮滅に帰したことに深い嘆きを寄せている。
作者は、近江朝の大友皇子に始まり、大津皇子、文武天皇、藤原不比等、大伴旅人、長屋王(注7)、藤原宇合、石上乙麻呂(注8)など、奈良朝の編纂時に至るまでの六十四人。これらの詩人の作をほぼ年代順に配列する。万葉歌人が十九人含まれていることも、漢詩と和歌の交流を考える興味深い。九人の作者については簡略な伝が付され、史料としても重要な意味をもつ。
ほとんどが五言詩で、七言詩はわずか七首に過ぎない。内容は、侍宴、従駕などの公宴詩が七十三首と大半を占め、中で応詔詩が十七首存在することが注目される。この時代、漢詩がもっぱら宮廷の公的な文芸として享受されていたことがわかる。天皇を儒教的な聖君として描き、その治世を高らかに讃美したものが中心である。恋愛詩がほとんど見られないことにも注意すべきだろう。中国詩を意識し、中国故事を取り入れることに腐心したためか、表現はしばしば観念的になり、文学的興趣には乏しい。ただし、ここに模索された景物描写の方法は、新たな季節感の定着をもたらすことにもなった。その季節に対する先鋭な意識が、和歌の世界にも大きな影響を及ぼしたことは注意されてよい。
●歌学の誕生
漢詩文の受容は、文学理論の面にも及んでいく。とくに詩の批評理論である詩学は、和歌の表現性についての自覚を深め、歌学の誕生をうながすことになった。和歌への批評意識はすでに『万葉集』の左注の中に見えるが、それらは特定の歌を対象とするものであり、歌学としての普遍性を目指したものとはいいがたい。体系性をそなえた本格的な歌学の誕生は、宝亀三年(七七二)五月、藤原浜成の撰による『歌経標式(かきょうひょうしき)』の成立まで待たなければならない。この書は、光仁天皇に奏上され、若干の修正の後、勅撰に準ずる形で完成に至ったらしい。
内容は、大きく歌病論と歌体論とに大別されるが、中国詩学の安易な当てはめが目立つとされ、これまでは否定的な扱いを受けるのが常であった。しかし、「古事」「新意」の用語を用いて枕詞、序詞などの表現技法を分析的に捉え、日常の言葉にはない比喩性を和歌の表現の本質として指摘しているところは画期的であり、注目に価する。序文に「歌は鬼神(きしん)の幽情(いうじやう)を感(うご)かし、天人(てんじん)の恋心(れんしん)を慰むる所以(ゆゑ)なり。韻は風俗の言語(げんぎょ)に異(たが)ひ、遊楽の精神(こころ)を長(ま)す所以なり」と説いているところにも、その的確な和歌観を見ることができる。欠陥は多いものの、最初期の和歌の批評理論として高く評価しうる内容をもっている。

4、歴史へのまなざし
●歴史書の編纂
古代の王権が成立すると、その支配の正統性を示す存立根拠を明示する必要が出てくる。そこに国家の歴史を振り返ろうとする意識が生まれる。歴史とは、過去を意味づけることで、現在を絶対化しようとする試みともいえるが、そのような歴史は、もとより小さな共同体の段階から、たとえば村立ての起源を語る神話のような形で存在した。それらは、祭式など共同体の語りの場で語り伝えられたが、その断片がフルコトと呼ばれる詞章として残されていることは、すでに述べた。一方、国家は、空間と時間の幅と深さとを圧倒的に拡大した共同体として形成されたから、その存立の根拠を示す歴史も、それに応じた複雑な構造をもつ。一方で、そこに誕生した王権は、東アジアの一角に、中国という大帝国を意識しながらも、東アジアの一角に独立した小帝国として存在することの意味を対外的にも誇示する必要に迫られていた。『日本書紀』や『古事記』、いわゆる記紀は、右のような必要に応じて作られた歴史書といえる。
●『日本書紀』と『古事記』
すでに、七世紀前半には、「天皇記」「国記」と呼ばれる記録が存在したらしいことが知られているが、本格的な修史事業は、壬申の乱後、天武朝において始められたとされる。「天武紀」十年(六八一)三月十七日条によれば、天武天皇は、川島皇子・忍壁皇子以下に命じて、「帝紀」および「上古の諸事」を「記定」させたとある。これは、あきらかに国家の歴史の編纂を目指したもので、『日本書紀』の成立へと向かう第一歩と見てよい。この一月前には、「律令(飛鳥浄御原律令)」撰定の詔が出されており、国家の整備が法と歴史の側面から進められていることがわかる。
実際に『日本書紀』が成立するのは、元正天皇の時代である。『続日本紀』養老四年(七二〇)五月二十一日条には、「これより先、一品舎人親王(とねりのみこ)、勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて日本紀を編む。ここに至りて功(くう)成りて奏上(さしあ)ぐ。紀(き)卅巻・系図一巻なり」とある。舎人親王が勅を奉じて編纂した『日本書紀』が完成し、それを奏上したとする記事である。「紀卅巻」とあるのが、現在の『日本書紀』と考えられる。「系図一巻」は伝わらない。
そもそも、『日本書紀』という書名は、中国の正史とも合致せず、きわめて異例である。「書」は紀伝体の、「紀」は編年体の史書を意味する。そこで、もともと『漢書』『後漢書』等にならって、「志」「伝」も含む「日本書」を構想しようとする計画があり、その「紀」の部分のみが完成したので、これを『日本書 紀』(「紀」は小書き)と記していたものが、いつのまにか『日本書紀』となったとする説がある。ここに「日本紀」とあるのは、そのことを裏づける。別に「志」「伝」が準備されていたとする痕跡も残されており、また後述する「風土記」の編纂も、こうした「日本書」構想の一環であったとする説もあって、『日本書紀』がもともと「日本書」の一部であった可能性は相当に高い。
『日本書紀』が「紀」「日本紀」と呼ばれるように、その根本は、編年体で歴史を叙述するところにある。ただし、冒頭二巻の「神代紀」のみは編年体に拠らず、天地開闢から天孫による国土支配に至る神話の世界が叙述される。以下、神武天皇から持統天皇に至る歴史が、系譜記事とともに叙述される。注意すべきは、「神代紀」において、編者によって正伝と認定された本文とともに、複数の異伝記事を、「一書(あるふみ)に曰(いは)く」として収めていることである。また、それ以後の巻においても、当時存在したさまざまな記録・文書を資料としたことが知られ、歴史事実を客観的に叙述しようとする姿勢が目につく。対外的な威信をかけ、中国正史に匹敵する内容を示そうとするとする意識がきわめて顕著である。その直接的な影響も随所に見られる。文体は、歌謡以外は、純粋な漢文体を基本とする。
一方、『古事記』の成立には不明な点が多い。その成立事情は、太安万侶(おおのやすまろ)の序文に詳しいが、それを後代の偽作と見る説もあるからである。ここでは、それを偽作と見ない立場で考えていく。それによると、天武天皇が「帝紀」「旧辞」や諸家に保存される古伝承の整理をはかり、それを稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じて「誦習」させたが、和銅四年(七一一)九月、元明天皇が安万侶に命じて「撰録」させ、翌年、完成奏上した。それが『古事記』であるという。その成立は、『日本書紀』に八年ほど先立つことなる。
ここにも、天武朝の修史事業が記されているが、先の「天武紀」十年の記事との関係は判然としない。『古事記』の書名は、訓読すればフルコトブミであり、フルコトの保存をたてまえとして標榜するところに『古事記』の意味があったのだろう。稗田阿礼の「誦習」とは、漢文体の文字資料として整理された伝承を、フルコトの韻律を重視しつつ、語ることであったと推測できる。そうした韻律を、最大限に生かすべく、新たに文字による定着を図ろうとしたのが、安万侶の「撰録」だったのだろう。そこに選ばれたのが、音訓交用表記と呼ばれる文体である。基本は漢文体だが、歌謡や神名、フルコト的な表現は、音仮名を主体に表記されている。
『古事記』は三巻からなる。上巻は天地初発から神武天皇の誕生まで。中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収めている。上巻は、イザナキ・イザナミ二神による国土創生、アマテラスを主宰神とする高天原(たかあまのはら)の成立、天孫降臨などを内容とする。中・下巻は、神武天皇をはじめ倭健命・神功皇后・仁徳天皇・雄略天皇など英雄的人物を中心とする伝説、軽皇子と衣通王の悲恋物語などが記される。中巻が神話・伝説的であるのに対して、下巻は人の世の物語としての性格がつよい。なお、中巻の綏靖天皇から開化天皇までの八代、下巻末尾の仁賢天皇から推古天皇までの十代の天皇は、系譜記事のみで物語は伝えられていない。
『古事記』は、諸氏族の伝承を組み入れながら、天皇家の支配の正統性を強調する内容になっている。その意味では、国家の中心に位置する天皇の歴史を語ろうとしていると考えられる。一方、『日本書紀』は、すでに述べたように、対外的な威信を懸け、国家の歴史を語ることを目的として編纂されたと考えられる。『古事記』は、その意味で、宮廷に保存された古層の宮廷史をもとにした歴史書であったことになる。『日本書紀』が、当時の東アジアの共通語である純漢文体を用いているのに対して、『古事記』が漢文体を基本としながらも、語りのありかたを活かそうとする姿勢を保持しようとしているのも、右のような違いによると思われる。ほぼ同時期に、『日本書紀』と『古事記』という二つの歴史書が踵を接するようにして成立した理由は、そうした違いによるものと見ておきたい。
『日本書紀』と『古事記』が、同内容の物語を語りながら、『古事記』がより登場人物の姿を精彩をもって描いたり、あるいはその心理の襞に分け入るような表現性を示しているのは、文体の違い、さらにいえば助字表記への配慮によるところが大きい。その意味で、『古事記』の文学性は『日本書紀』を圧倒的に凌ぐものがある。
●『万葉集』と『古事記』――古層の宮廷史
先述したように、『万葉集』の原型は巻一、二であり、雑歌・相聞・挽歌の三大部立によって歌を分類する。しかし、それ以上に重要なのは、この二巻が天皇代ごとに歌を配列する編年式歌巻であることである。この配列は、後代の歌集にも見られぬ独自なものとされるが、そこに『古事記』と同じく、古層の宮廷史を和歌によって構築しようとする意志があったのではないかとする指摘(注9)がある。古代の宮廷は、天皇の私的機関が執政機関であったから、古層の宮廷史は、天皇の出生・婚姻と所生皇子女、死などの記事を骨格として、それを天皇代ごとに配列することで成り立っている。さらに、そこには、さまざまな反乱や禁忌侵犯の恋の伝承が鏤められることになる。『万葉集』の巻一、二の相聞・挽歌の歌うたは、まさしくそうした宮廷史の伝統をさながらに体現しており、そのありかたは『古事記』のそれと重なり合う。
その際、鍵を握る人物が、元明天皇、元正天皇の母子だったのだと推測される。元明は、即位することなく早逝した天武天皇の皇子草壁皇太子の妃である。元明天皇の役割は、天武―(草壁)―文武―聖武と受け継がれるべき天武皇統の全き継承を維持するところにあった。元明は、その皇子文武の崩後に即位し、さらにはその皇女元正を中継ぎとして即位させ、聖武即位への道を開くことに心を砕いた。元明天皇の命によって、『古事記』の「撰録」がなされたのは、『古事記』が、古層の、言い換えると内廷中心の宮廷史であり、それ天武皇統の正統性を証し立てる天皇家の歴史だったからだと考えられる。同時に、『万葉集』の巻一、二に見られるような、和歌による宮廷史の構想も、元明、元正母子の天皇の時代に進められたものと思われる。それが、最終的には規模が大きく広げられ、大伴家持に下命された『万葉集』の編纂へとつながっていったのだろう。
●地誌の編纂――「風土記」の成立
『古事記』成立の翌年、和銅六年(七一三)五月、元明天皇は諸国に詔命を発し、地名に「好字」を用いること、またそれぞれの郡ごとに、産物、地勢、地名の由来、古老の伝承などを記した地誌を編纂することを命じた。すでに述べたように、これを「日本書」構想の一環と見る説もある。その場合には、「志」にあたるものとして、地誌が意図されたことになる。国家の経緯を示す意図で、歴史書と地誌の編纂が進められたことになる。この詔命によって、編纂されたのが「風土記」である。基本的には、諸国から中央への報告書(解文)として送られた。「風土記」の書名も、当初はなかったらしい。現存するのは、『出雲国風土記』『常陸国風土記』『播磨国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』の五風土記と、後代の諸書に断片的に引用された佚文のみである。五風土記の中で、完本は『出雲国風土記』のみである。『常陸国風土記』『播磨国風土記』などは、和銅の詔命の直後に作られたらしいが、天平五年(七三三)二月完成の年紀をもつ『出雲風土記』や『豊後国風土記』『肥前国風土記』は、詔命から二十年前後を経て作られたらしい。もっとも、西海道(九州)風土記には、佚文をも含め、文体上、甲乙の二類(『豊後国風土記』『肥前国風土記』は甲類だが、その佚文には乙類のものもある)があることが判明しており、それらの先後、また『日本書紀(日本紀)』との関係をめぐって、議論が尽きない。なるほど、和銅の詔命から二十年を経て初めて作られたとするには不審もあり、乙類風土記の存在は大きな問題となりうる。同様な視点から、現存の『出雲国風土記』にも再撰説があり、今後のさらなる検討が待たれるところである。
和銅の詔命の要求が具体性を欠いているために、「風土記」において、諸国が報告した内容はとりどりである。しかし、地名起源譚が重視されていることは共通しており、そこに「風土記」の大きな価値があるといえる。中央政府による直接の編纂の手を経ていないだけに、諸国の伝説がそのままに保存されていることが多く、その背景をなす地方の人びとの生活や心情をうかがい知ることができる。『出雲国風土記』の国引きの詞章のように、長大なフルコトを残している例もあり、豊かな文学性をもつ記事も少なくない。
「風土記」は、報告書として中央に送られただけではなく、その複写が、その国の国庁などにも保存された。そうした「風土記」は、都から赴任した国司が政務を行う際の資料としても利用されたらしい。
●氏族伝承の編纂
律令体制が新たな制度として固定化すると、各氏族が古くから持ち伝えてきた伝承も、それに添うべく改編を迫られる。律令制度は、貴族を官僚として組織化するところに基盤を置くから、それまでの氏族の伝統とは相容れない面をつよくもつ。特定の氏族と結びついていた職掌も、他の氏族に委ねられるようになっていく。氏族間にもさまざまな抗争が引き起こされる。そうした中、みずからの正統性を主張するために、生み出されたのが、『高橋氏文』『古語拾遺』などの氏族伝承である。
『高橋氏文』は、延暦八年(七八九)、高橋氏が、同僚の阿曇氏と神事奉仕の席次を争った際、自氏の主張の正しさを示すために奏上した書だが、完本は伝わらない。『古語拾遺』は、斎部広成の著。大同二年(八〇七)成立。朝廷の祭祀の執行をめぐって中臣氏と対立した斎部氏が、自氏の歴史をあきらかにし、中臣氏と対等であることを主張した書である。
注意すべきは、この二書のいずれも、『日本書紀』を引用しながら、それとの整合性をはかり、それによっておのれの正統性を主張しようとしていることである。すでに『日本書紀』が、国家の正史として揺るぎない権威をもっていることがたしかめられる。ただし、氏族固有の伝承も少なからず含まれており、そこに大きな価値を認めることができる。
なお、卜部氏の『新撰亀相記』、物部氏の『先代旧事本紀』も、同様な氏族伝承と見てよいが、そこに記された成立年時には疑問があり、次代以降の作とされている(注10)。
●伝への関心
右にも述べたように、律令体制は、官僚制度を基盤として存在した。官僚制度は、官僚個々の行実を重視するから、氏族内部の「家」、さらにいえばその「家」を支える個人の功業への関心がつよく現れるようになる。そこに生み出されたのが、家伝と呼ばれる新たな伝である。その典型は『藤氏家伝』である。『藤氏家伝』は、藤原氏の祖鎌足の伝(「大織冠伝」)とその孫武智麻呂の伝からなるが、他に「貞恵伝」「史(不比等)伝」もあり、広義にはこれを含めて『藤氏家伝』と呼ぶ。「大織冠伝」は僧延慶の、武智麻呂伝は藤原仲麻呂の作とされるが、全体は仲麻呂によってまとめられた可能性が高い。藤原南家の祖先の功業を顕彰しようとする姿勢が顕著で、仲麻呂の政治姿勢を裏づけようとする意図が背後にある。
個人の功業を記そうとする意識は、すでに墓誌や『続日本紀』の薨伝などの中にうかがうこことができる。『懐風藻』の中にも個人の伝が記されていることは、すでに述べた。こうした中、聖徳太子や、鑑真といった偉大な人物への関心から、それらの伝が生み出されるようになった。聖徳太子は、推古三十年(六二二)に薨ずる、その直後から、その生涯は伝説化され、その一端はすでに『日本書紀』の中にも示されている。やがて、不完全ではあるが、伝としてのまとまりをもつ書物が現れた。それが『上宮聖徳法王帝説』である。法隆寺系の所伝を資料とし、平安時代初期の成立とされるが、その内容は古伝にもとづくところが少なくない。一方、唐から日本に渡り、戒律を伝えた鑑真の伝も著された。宝亀十年(七七九)、淡海三船によって記された『唐大和上東征伝』(注11)がそれである。六度にわたる渡海の辛苦をはじめ、唐招提寺の開創と示寂に至る鑑真の生涯が詳細に記されている(注12)。

5、仏教説話の誕生
●仏教――普遍的な宗教
律令制度は、国土全体を均質化し、そこに普遍的な理念をもたらすことで、それまでの地域ごとの共同体のありかたに大きな揺さぶりを与えた。村里の閉鎖性は、国家の秩序によって打ち破られ、戸籍や計帳の整備に見られるような人頭別支配によって、その成員一人ひとりも、直接に国家に向き合うことを余儀なくされるようになった(注13)。
そうした国家の均質化したありかた、その普遍的な理念に見合う宗教として、受容されたのが仏教だった。仏教は、村里の固有性を超え、いわば誰の神でもない普遍性をもつ「今来の神」として、人びとの間に浸透した。しかも、仏教は、一人ひとりの個体が抱え持つ新たな不安を解消する論理をももちあわせていた。なぜ自分だけが貧しいのか、なぜ自分だけが病に苦しまなければならないのかといった問題は、村里の神々への信仰では、解消されることはなかった。それを、救い取るはたらきを示したのが、仏教だったのである。善因善果・悪因悪果の因果応報の論理は、来世へのまなざしを用意することで、人びとに現実の苦悩からの解放を約束させた。仏教は、当初は国家が要請する新たな宗教として、その鎮護国家的な役割が期待されていた。しかし、そうした上からの押しつけではなく、仏教は、それ自体のもつ論理によって、人びとの支持を、衆庶も含めて徐々に獲得していったのである。
●『日本霊異記』――最初の仏教説話集
仏教を人びとの間に広めたのは、私度僧(注14)と呼ばれる民間仏教者、あるいは官寺仏教の下級の僧たちであった。前者は、行基を中心とする大きな社会集団を形成するなどして、一時は律令政府から厳しい弾圧を受けることもあった。
そうした民間仏教者、あるいは下級の僧たちの唱道の場で語り広められた仏教説話を集めた説話集が生み出された。それが『日本国現報善悪霊異記』、略して『日本霊異記』である。『日本霊異記』は、上中下三巻からなり、全部で百十六条の説話を収めている。その編纂過程は複雑だが、最終的には弘仁年間(八一〇~八二四)の成立が有力とされる。
撰者は薬師寺の僧景戒(きょうかい)。景戒については、知られるところが少ないが、薬師寺に入る以前は、私度僧の体験をもっていたと想像されている。
『霊異記』は、その書名からも明らかなように、この日本国に現報として起こった仏験の霊異を善悪ともどもに記した書物である。現報とは、善因善果・悪因悪果の応報が、この現世においてたちどころに現れることを意味する。ただし、『霊異記』においては、善報譚は少なく、悪報譚が大半を占めている。その序文によれば、悪報譚を示すことによって、混乱した世相の中で、悪の道に奔ろうとする人びとの心を善導しようとすることが、本書編纂の意図であったという。景戒は、末法に及んで、この日本国に仏教が流伝したことに深い意味を認めており、それゆえにこの日本国(『霊異記』は、これを「自土」と呼ぶ)に生じた霊異を集めようとしたらしい。当時の衆庶の生活が生き生きと描き出されており、市の交易など、経済活動の実態をうかがわせる話も収められている。行基を超人的な力をもつ救世主として捉えるなど、私度僧の教説を直接に反映した話も少なくない。聖武朝を、仏験の霊異の集中する特別な時代と捉えていることも注意される。奈良時代の史料としても、第一級の意味をもつ。『霊異記』の説話は、次代の『三宝絵』や『今昔物語集』などにも受け継がれた。
…………
注7 長屋王は、佐保の邸内に楼閣を設け、それを「作宝楼(さほろう)」と名づけて、詩宴を催した。『懐風藻』には、そこで詠まれた詩が多数収められている。
注8 土佐に配流されたが、その際、『銜悲藻』(佚書)という詩集を残した
注9 森朝男『恋と禁忌の古代文芸史』、若草書房、二〇〇二。
注10 津守氏が記した『住吉大社神代記』も『日本書紀』を引用しつつ、独自な所伝を記すが、九世紀後半以降の成立とされる。
注11 それ以前に、鑑真の弟子思託の著した『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』があり、それを節略して、淡海三船は『東征伝』を著した。
注12 他に、高僧の伝として『道璿和上伝纂』(佚書)がある。
注13 とはいえ、村里の閉鎖性が消失したわけではないことにも注意したい。
注14 私に(勝手に)得度した僧。当時、僧となるには、国家の許しが必要だった。『霊異記』は、「私度」を「自度」と呼んで、その存在を積極的に肯定する。

-研究

Copyright© 多田一臣のブログ , 2025 AllRights Reserved.