2 古代和歌の生成
●歌謡から和歌へ
古代の歌謡は、口誦の世界を背景として成立した。しかし、律令国家が誕生し、官僚組織が整備され、都市生活が営まれるようになると、集団性から切り離された個的なものへの自覚が生み出されてくる。そうした中で、歌謡にも表現の洗練が加えられ、少しずつ創作の手が加えられるようになっていく。もともと歌謡は、言葉の連想が一首の興味を支えていたので、ゆるやかなまとまりはあるものの、連想そのものへの関心がつよめられると、表現が部分的に肥大化する傾向があり、一首全体の完結性には欠けるところがあった。しかも、歌謡は歌われる場に大きく依存するところがあった。むしろ、そうした場への依存が、言葉の連想への関心を高め、あるいは完結性の不足を補う意味をもっていたともいえる。
歌謡は、場に即して享受されるかぎりは、口誦の歌としてのおもしろみが充分に発揮されたといえるが、そこに個的な心情を盛り込むことには、大きな限界があった。和歌が生み出される理由はそこにある。それゆえに、和歌は、まずは叙情詩として定位されることになった。和歌もまた、その表現を言葉の連想にゆだねることが少なくないが、その場合も、言葉はつねに一定の方向に流れて、一首の完結性は揺るがない。一首の喚起するイメージは、歌謡とは違って、それ自体でくっきりとした輪郭をもつことになる。
和歌になると、音数律は、五音、七音に固定され、長歌・短歌・旋頭歌(せどうか)(注3)の歌体が定型として整備されていく。
●都市的な感性
歌謡から和歌への転換を支えたのは、都市的な感性であるともいえる。もともと、都は、明日香の限定された地域に置かれていたが、それを打ち破ったのは、近江京への遷都である。近江京そのものは狭隘な土地に営まれており、本格的な都市の誕生とは言い難いが、大和を本貫とする貴族とは地縁関係をもたない「鄙(ひな)」の土地に、人工的な都が造られた意味はきわめて重い。近江京には、百済からの渡来人も集住し、華麗な都市文化が生み出された。漢詩文の隆盛に刺激されて、和歌の表現にも新たな表現が模索されるようになっていく。
壬申の乱で近江京が灰燼に帰した後、都はふたたび大和の地に戻る。そこに造られた藤原京こそ、本格的な都市の誕生と見てよい。そうした中で、季節感にも、都市的な感性が反映されるようになっていく。一例を挙げよう。『万葉集』に収められた持統天皇の御製歌である。
春過ぎて夏来(きた)るらし白栲(しろたへ)の衣(ころも)乾(ほ)したり天(あめ)の香具山(かぐやま) (巻一・二八)
季節の到来を歌った歌は多いが、その季節は大半が春や秋である。それは、農耕生活を基本に、伝統的な季節感が生み出されたからである。この歌のように、夏の到来を歌うのは目新しい。季節の到来を感じさせるのも、本来は自然現象による。だが、この歌では「白栲の衣」を乾すという人為的な営みが季節の推移を感じさせている。ここには、暦によって季節の到来を把握するようになる、新たな季節感の反映をうかがうことできる。それをもたらしたのは、藤原京という人工的な都市空間の生活、その感性にほかならない。
一方、和歌は、その叙情詩としての表現を洗練させることで、宮廷社会の対人関係を円滑に築き上げる、いわば社交の具としての意義を拡大させていくことにもなった。
和歌が発達すると、歌集の編纂が行われるようになる。和歌に対する批評意識も生まれてくる。『万葉集』の注記によれば、『古歌集』『柿本人麻呂歌集』『高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)歌集』『田辺福麻呂(たなべのさきまろ)歌集』『類聚歌林(るいじゅうかりん)』などの歌集が存在したことが知られるが、これらは現存しない。
こうした中、八世紀半ばころまでの和歌を集成して『万葉集』が生み出された。
●『万葉集』の成立
『万葉集』は、現存するわが国最古の歌集で、二十巻からなり、約四千五百首の和歌を収めている。成立については不明な点が多いが、まず核となるような原型的な部分――巻一、二にあたる――がまずあり、それを中心に長期にわたって増補が繰り返され、最終的に現行の現行の二十巻本が形成されたらしい。当初から統一した編纂方針があったわけではなく、また全体を統括する責任者がいたわけでもない。後代の勅撰集のように、序文や跋文も存在しない。現行の二十巻本も、一応のまとまりはもつものの、それを最終的な完成体と見なしてよいかどうかについても議論の分かれるところがある。
最終的な編纂の段階には、大伴家持(おおとものやかもち)が深く関与しているとされるが、元正太上天皇の意向を受けた左大臣橘諸兄の命によって、天平十六~十七年(七四四~七四五)頃、その編纂作業が行われたとする説がある。その後、家持の私的な歌日記群である末尾四巻がやはり家持の手によって増補され、現行の二十巻として成立したという。家持は、藤原種継暗殺事件に連座したため、この『万葉集』は日の目を見ることないまま、朝廷に没収され、その後平城天皇の時代になって叡覧・認証を得たとされる(注4)。ただし、その成立をさらに引き下げる見方もあり、また巻ごとの編纂姿勢にかなりの相違があるところから、その成立過程をめぐる議論もいまだに尽きないところがある。
●構成・歌体
編纂過程の複雑さもあって、集の組織には不統一が目立つが、基本的には、雑歌・相聞・挽歌の三大部立が認められる。巻によっては、表現上の分類として、正述心緒歌・寄物陳思歌・譬喩歌などの類別がある。また四季による分類、歌体や形式による分類も見出される。
歌体は、短歌が全体の九割以上を占めるが、他に長歌・旋頭歌などがある。これらを部立によって和気、さらに年代や作歌の場などを基準に配列している。
●時代区分と詠風
『万葉集』の作品の詠作年代は、仁徳天皇代から八世紀中頃までの約四百五十年間にわたっている。しかし、舒明天皇(六二九年即位)以前の作には伝誦的な性格がつよく、実際の成立年代ははるかに下ると考えられている。作品の大部分は、それ以後のほぼ一世紀半の間に作られている。『万葉集』の詠風は、その変遷によって、通常、以下の四期に分けて考えられている。一部政治史の時代区分を前提にするなど問題を残すが、おおむねこの区分が妥当とされる。
第一期 舒明天皇の時代~壬申の乱(六七二年)
万葉の夜明けともいうべき時期で、中央集権体制が確立するまでの激動の時代にあたる。この時期を、初期万葉の時代と呼ぶこともある。作者は、舒明(じょめい)天皇・天智天皇・天武天皇・有間皇子・額田王(ぬかたのおおきみ)など皇室歌人が中心で、とりわけ額田王は傑出した存在として知られる。
額田王の残した歌は、長歌三首、短歌十首と少ないが、『万葉集』全体を見渡してもその存在は大きい。その最大の功績は、歌を呪的な世界から切り離して、そこに宮廷詩としての新たな性格を与えたところにある。宮廷歌人(注5)の始祖は次代の柿本人麻呂だが、額田王は、その先駆けの役割を果たしたともいえる。とくに、「春秋判別歌」は、近江京の詩宴の場に、和歌の詠作をもって参入し、和歌が漢詩文と対等の資格で、宮廷詩として受け入れられるようになったことを示す記念碑的な一首として評価が高い。
第二期 壬申の乱~平城京遷都(七一〇年)
壬申の乱後、平城京遷都に至るまでの約四十年間である。持統・文武天皇を中心とする藤原京の全盛時代にあたる。律令体制は一段と整備され、天武天皇の後継者をめぐる皇位継承の問題はあったものの、宮廷は繁栄と安定を示した。宮廷歌人が出現し、とりわけ柿本人麻呂は、その第一人者として活躍した。この時期の和歌には、力づよさとともに重厚さがくわわり、表現技巧も発達して、長歌・短歌の様式が完成した。主要歌人には、旅の歌に特徴をもつ高市黒人、即興の歌人として物名歌などを得意とした長意吉麻呂、志貴皇子、舎人皇子らがいる。
柿本人麻呂は、第二期のみならず、『万葉集』最大の歌人と目される。人麻呂は、宮廷歌人として、持統・文武天皇の行幸従駕歌をはじめ、皇子女への挽歌など、数多くの儀礼歌を詠んでいる。「近江荒都歌」「吉野讃歌」「安騎野遊猟歌」「日並皇子挽歌」「高市皇子挽歌」などが、その代表作とされる。天皇神聖観を基調とした王権讃美の姿勢がつよく見られるのが、これらの歌の特徴である。こうした儀礼歌、とくに長歌は、序詞・枕詞などの修辞が多用され、雄大な構想と格調高い調べをもつ作品世界が展開されている。長歌の基本は叙事脈にあるが、そこに人麻呂は歌謡に由来する喩的表現をたくみに取り込み、その融合を通じて長歌の様式を完成させた。さらに複数反歌を連ねる方法を案出して、長歌の可能性を広げるなど多様な展開を試みた。古来の枕詞を改鋳し、そこに新たな意義を与えたり、新たな詩語(歌語=歌言葉)の発明を通じて、高度な詩的創造を成し遂げた。
一方、人麻呂は、公的儀礼歌だけでなく、私的世界を背景とする相聞歌や挽歌も数多く残している。「石見相聞歌」「泣血哀慟歌」などが、その代表作とされる。
人麻呂の歌集「柿本人麻呂歌集」は、『万葉集』編纂の重要な資料とされたが、現存しない。人麻呂の作のみならずその周辺の作をも集めた歌集で、三百三十首余りが『万葉集』に見える。文字表記の上に大きな特色をもち、旋頭歌のような集団性を背景にした口誦性の濃厚な歌も収められている。人麻呂が後代歌人へ与えた影響はまことに大きく、「歌聖(うたのひじり)」と尊称された。
第三期 平城京遷都~天平五年(七三三)
第三期は、奈良時代前期に相当する。平城京遷都(七一〇)から天平五年(七三三)までの約二十年間で、元明・元正・聖武天皇の時代である。天平五年を画期とするのは、この期の代表歌人である大伴旅人がその前々年に、山上憶良がこの年に没しているからである。
この時期は、律令体制の整備も一段と進められたが、一方で社会不安も広がりはじめる。行基(ぎょうき)を中心とする民間仏教者たちの布教活動が盛んになるのもこの頃である。藤原氏の擡頭が顕著になり、長屋王(ながやのおおきみ)の謀反事件なども引き起こされた。仏教・儒教・老荘思想などの大陸の思想や文化が、知識人に大きな影響を与えるようになり、和歌の世界にもその反映が見られるようになった。作者と詠風は多様に分化し、万葉の盛時を築き上げた。
代表歌人には、老荘的な世界に浸り込み、脱俗的な風流に身を置くことで体制から疎外されたわが身の不遇を韜晦しようとした大伴旅人(おおとものたびと)、宮廷歌人としてしばしば人麻呂と並称される山部赤人(やまべのあかひと)、女性歌人として集中最多の作を残した大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)、同じく宮廷歌人として宮廷関係歌を数多く詠んだ笠金村(かさのかなむら)らがいる。
しかし、この時期のもっとも重要な歌人は、高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)と山上憶良(やまのうえのおくら)の二人である。それというのも、この二人が、長歌の表現に新たな展開をもたらしたからである。
右に述べたように、この時期には、万葉の盛時にふさわしく、多様な詠風が現れたとはいえ、長歌に限っては大きな壁にぶつかっていた。長歌の様式は、前代の柿本人麻呂によって完成されたが、それが表現の限界にまで達していたがゆえに、それ以後の長歌は、ことごとく人麻呂の亜流、すなわち模倣の域にとどまることを余儀なくされたからである。
そうした中、高橋虫麻呂は、長歌に語りの手法を持ち込むことで、作品世界に奥行きをもたらし、叙事の表現の可能性を大きく広げた。虫麻呂は下級官人であったらしく、経歴の詳細は不明だが、その作には伝説を主題とする叙事的な長歌が多く、伝説歌人とも評されている。その代表作には、「真間娘子の歌」「水江浦嶋子の歌」などがある。
一方、山上憶良は、さらに果敢な試みを行った。憶良は、長歌に漢文体の序を付して、長歌との有機的なつながりをはかり、さらには散文の論理をそのまま長歌の内部に持ち込むことを企図した。社会派歌人・生活派歌人と評される憶良の作のことごとくは、そうした企図の具体的な現れと見ることができる。憶良は、そうした中で、人生の暗部ををも積極的に長歌の内部に歌い込めようとするが、しかし、その営為は対象への讃美を本質とする長歌の表現論理と根本のところで抵触し、「貧窮問答歌(びんぐうもんどうか)」が典型であるように、結果として伝統的な和歌の韻律を内側から破壊することにもなった。憶良には、「述志」「言志」を標榜する中国詩文の影響がつよくうかがわれるが、それにならうことで、ここに初めて思想を抱え込む和歌が生み出されたといえる。しかし、憶良のこうした意欲的な試みは、後代に受け継がれることはなかった。和歌に思想を盛り込むことは、憶良を措いてはなしえないほど大胆な力技を必要としたからである。語りの手法を導入した虫麻呂の長歌の方法も、以後、後継者を得ないまま散文世界の中に吸収されていく。結果として、長歌の表現は、徐々に衰退に向かっていくことになる。
第四期 天平六年(七三四)~天平宝字三年(七五九)
天平六年から『万葉集』の最終歌(制作年時の上でも配列の上でも)が作られた天平宝字三年までの約二十年間がこの時期で、奈良時代中期にあたる。爛熟した天平文化の陰で、政治的な行き詰まりに対する動揺が広がり始めた時期である。藤原仲麻呂の専横がつよまり、橘奈良麻呂の変などが引き起こされた。それを反映してか、和歌は力強さを失って感傷や優雅に傾き、理知や技巧の凝らされたものが多くなった。発想や表現も類型的に固定し、次代の詠風への推移を思わせる。長歌は衰退し、日常の社交の具として短歌が盛んに詠まれるようになった。
この時期の代表歌人は大伴家持で、憂愁に満ちた感傷を繊細な表現で歌いあげ、独自な境地を開いた。そのほかの歌人には、笠女郎(かさのいらつめ)、中臣宅守(なかとみのやかもり)、狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)、田辺福麻呂(たなべのさきまろ)らがいる。
大伴家持は旅人晩年の子として生まれた。藤原氏擡頭の陰で、古来の名族大伴氏は昔日の勢いを次第に失いつつあったが、家持はその長として、中央と地方の政界を往復し、いくつかの政争を直接・間接に体験するなど、波乱に富む人生を送った。「『万葉集』の成立」の項でも述べたように、家持が、現行の『万葉集』の二十巻本の成立に深く関与していた可能性は相当に高い。家持は、『万葉集』の追補の作業にかかわることで、柿本人麻呂や山上憶良など先人たちの歌を深く学ぶ機会を得たが、その詠風は、あきらかに次代の和歌への過渡的傾向を示している。
●巻十六の特異性
ここで巻十六の特異性について、簡単に触れておく。巻十六は、「由縁有る雑歌」との標題をもち、基本的に何らかの伝誦的、物語的な背景が語り伝えられている歌を集めている。①物語的な題詞や左注をもつ歌、②宴の場を主たる背景にもつ戯笑歌(ぎしょうか)、③地方の歌、芸謡(げいよう)、呪歌(じゅか)などの特殊な歌の三部に分かれるが、①には次代の歌物語につながるありようが見えており(注6)、また②③にはそれまでの歌とは異質な表現を求めようとする傾向が顕著にうがかえる。その意味では、「非(反)万葉」を志向する歌うたが集められているとも評しうる。宴席などの社交の場で、和歌の表現が理知的な遊戯の対象となっている様子を、それらの歌から読み取ることができる。物名歌(もののなうた)のように、互いに脈絡のない事物を読み込む歌、とりわけ「無心所著歌(むしんしよじやくか)」は、そうした歌の典型といえる。和歌は和語によってうたわれるのが原則だが、漢語を意識的に用いた歌がここに見られることも注意される。
●東歌と防人歌
『万葉集』には、巻十四に東歌(あずまうた)が、巻二十に防人歌(さきもりうた)が収められている。これらが東国の衆庶の歌を集めたものであることから、『万葉集』は、上は天皇から下は庶民までの歌を網羅した一大国民歌集であるとする見方がかつては存在した。しかし、今日では、このような見方は否定されている。何よりも、『万葉集』は宮廷歌集であり、東歌も防人歌も宮廷歌集の論理を背景として集中に位置づけられているからである。ただし、同じ東国の歌ではあっても、東歌と防人歌では、存在の意味が大きく異なっている。
東歌は、東国の民謡に起源をもつ歌が大半を占める。その意味で、東国の衆庶の声を伝えた歌と見ることは、必ずしも誤りとはいえない。だが、東歌は民謡そのものではありえない。歌体が完全な短歌形式であり、またその発想に中央の歌との共通性が顕著であることから、その背後に中央の側からの何らかの文化的馴致があったことが想像されるからである。性愛のあけすけな描写など、東歌に特徴的な異土性は、むしろ中央の側の東国理解、そのエキゾチシズムの現れであったと解することができる。東国は、「都(みやこ)―鄙(ひな)」の対立構造から除外された第三の地域と見なされていた。東国独自とみなされる歌を集めるところに、国家を文化面においても統一的に把握する、中央政府による支配の意図があったと見ることができる。それが宮廷歌集である『万葉集』に、東歌が存在することの理由である。
一方、防人歌は、東歌中にも数首採録されるが、とりわけ重要なのは、巻二十所収の八十四首である。天平勝宝七年(七五五)、諸国の部領使(ことりづかい)(防人引率の国庁の役人)が進上した歌を、当時兵部少輔(ひょうぶのしょうふ)(兵部省の次席次官)として防人交替業務に従事していた大伴家持が、取捨して採録したものである。その防人歌は、防人制度の改廃を検討する資料として、組織的に収集された可能性が高い。天平二年(七三〇)以降、防人制度は動揺を続け、停止と復活を繰り返す変転のただ中にあった。防人歌は、防人たちの赤裸々な心情を伝える貴重な記録として、その制度運用の是非を判断する資料とされたらしい。当時、兵部省の長官は橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)であり、奈良麻呂の父は左大臣諸兄だから、諸兄から奈良麻呂を通じて、家持に防人歌収集の命が下った可能性が高い。その意味で、防人歌はたしかに東国の衆庶の声を響かせる歌うたではあるが、異土性を強調することで中央政府の支配の広がりを示す東歌とは、あきらかに違った役割が期待されていたことになる。
…………
注3 五七七、五七七音の歌体。集団的な口誦性を残す。前句に提示された謎を後句で意味づけるようなものが多い。
注4 以上は、伊藤博『萬葉集の構造と成立』、塙書房、一九七四、などの説による。
注5 この名称が当時存在したわけではない。宮廷に仕える下級官人で、公的な場において専門歌人として遇され、和歌の詠作によって奉仕することを求められた存在を指す。
注6 古橋信孝『物語文学の誕生』、角川書店、二〇〇〇。