この表題で、「ああ」と気づく方は、もうかなりのお歳のはずである。
だから、そうしたずいぶん以前の、いまさらながらの話題になる。
野球漫画の傑作「巨人の星」がアニメ化され、テレビ放映されたのは1968年というから、半世紀を超えた昔のことになる。その主題歌(東京ムービー企画部作詞)の冒頭は、次のように始まる。
思いこんだら 試練の道を
行くが男の ど根性
この「思いこんだら」を、少なからぬ視聴者が「重いコンダラ」と捉え、それをグラウンドなどを整地するコンクリートなどを詰めた手動式の鉄製ローラーのことだと解したらしい。それで、そうした整地用ローラーのことを、コンダラと呼ぶようになったという。むろん俗称である。そのことは、ここに記すまでもなく、よく知られている事実である。
私が気になるのは、どうしてこのような誤解が生じたかである。アニメの途中の回で、主人公星飛雄馬(ほし・ひゅうま)が、ローラーを引く場面があり、そこにこの主題歌が重ねられているから、その影響と見る向きもある。
とはいえ、誤解が生じた理由は、やはり歌詞そのものにあるように思われる。「思いこんだら」は「思い込んだら」だが、この「思い込む」という動詞の微妙さに、意味がきちんと伝わらなかった理由があったのではあるまいか。
「思い込む」とは、あることに一途(いちず)に打ち込もうとする心の姿勢を意味する言葉である。ここもまた、どんな試練が待ち受けていようと、野球道に打ち込もうとする、飛雄馬の固い決意を歌っているから、歌詞そのものに誤りがあるわけではない。
とはいえ、そうした「思い込む」の意味は、昨今では、やや耳遠くなっているのではあるまいか。「そのことだけを思い詰める」「根拠もなしに固く信じ込む」といった、やや否定的な意味合いを含めて用いられることが多いからである。「あいつは思い込みがつよすぎる」などといった例が、すぐ思い浮かぶ。
もっとも、「思い込んだら命がけ」になると、「巨人の星」の歌詞に近いかもしれない。とはいえ、どこか危うさも感じ取れるから、ここにも否定的なニュアンスはうかがえる。ならば、「巨人の星」の歌詞もそうなのではないか。
「巨人の星」の冒頭二行は、ずいぶんと大時代(おおじだい)な言い回しである。「男のど根性」が「思いこんだら」を導き出しているわけだが、半世紀を超えた昔であっても、その言い回しにうかがえる否定的なニュアンスが、どこか耳遠く感じられ、それゆえ「重いコンダラ」に結びついていったのではあるまいか。むろん、「思いこんだら」は「試練の道を行く」に続くのだが、歌は「試練の道を」で、一旦切れる。それゆえ、聴き手の耳には「思いこんだら 試練の道を」がひとまとまりとして届くことになる。それもまた、「重いコンダラ」と誤解させる理由になっているのではあるまいか。
以上述べたことは、先の「ラジオ体操の歌」と同様、臍曲がりの屁理屈に近い。ご寛恕を乞う。
いま信濃追分の山荘にいて、毎日周囲を散歩している。たまたま立ち寄った諏訪神社の境内のはずれに、なぜかその整地用ローラーが置かれていた。それで「巨人の星」の「重いコンダラ」に連想が及んだような次第である。なお、整地用ローラーは、引くのではなく、押すのが正しい扱い方だという。なお、諏訪神社については、やはりこのブログ「丹山大明神 信濃追分①」で取り上げたことがある。