はじめに
『万葉集全解』(筑摩書房)全七冊を刊行してから、すでに十数年になる。当初は、文庫本での刊行を予定していたのだが、原稿が膨らみすぎたこともあり、結局は大きな判型での出版になった。
訓み下しの本文に脚注を加えたスタイルだが、原文や主要な校異を末尾に置いたのは、『万葉集』の注釈書としては異例であろう。これも、一般読者を意識した、文庫本での刊行を前提としていたためである。
上記のこととも関係するが、私の用意した当初の原稿に、編集部が手入れをしたところが少なからずある。原稿では、訓み下しの本文で、原文の漢字をあえて用いた箇所もあったりしたのだが、読者が読みやすいように、編集部が文字を統一するなどした。漢字をひらがなに置き換えたところ、新たにルビを付加したところもある。
編集部によるこうした原稿の手入れについて、私自身は異を唱えなかった。その理由は、読者の読みやすさを優先したいと考えたからであり、末尾に原文を置いているのだから、そうした手入れに問題はないと判断したからである。
編集部が手入れをした部分も含めて、校正刷のすべては私が点検したから、一切の責任は、私にある。とはいえ、完成した本を見ると、手入れに起因する誤りがいくつか出て来た。中には、気恥ずかしくなるようなルビの誤りもある(巻16の「蓮花」のルビなど)。なぜ、校正で気づかなかったのか。もとより、原稿段階で私の犯した誤り、考え違いが判明したところも、少なからずある。
もし再版などの機会があれば、これらの誤りを訂正しようと、ずっと思っていた。とはいえ、そうした機会はなかなかありそうもなく、このブログにも記したように、昨秋には私が死に瀕するような事態も起こった。そこで、どこかでその訂正を明示しておくのがよいと考えたような次第である。このブログを利用することにしたのは、前にも『万葉樵話』(筑摩書房)『古事記私解Ⅰ』(花鳥社)の訂正を、ここで行ったからである。二回に分載する。
『万葉集全解 1』の訂正
◇84頁 巻1・84 「妻恋ひに」のルビ
「つまこ」→「つまご」
◇99頁 巻2・92 脚注部分7行目
「女歌の特徴。」の下に「→一七九二。」を付加。
◇104頁 巻2・100 「東人」のルビ
「あずまひと」→「あづまひと」
◇221頁 巻3・238 脚注部分6行目
「→一六一三、…」→「→一二八七、一六一三…」
◇226頁 巻3・244 脚注「柿本朝臣人麻呂の歌集」の3行目
「三百三十首余り」→「三百六十首余り」
◇268頁 巻3・317 脚注部分1行目
「五位以下の下級官人」→「六位以下の下級官人」 ◇290頁 巻3・290 脚注部分1行目 「音羽山」のルビ「おとば」を削除 ◇299頁 巻3・368 左注「国守」のルビ
「くにつかみ」→「くにのかみ」
◇363頁 巻3・460 脚注部分3行目
脚注「問ひ放くる」の説明の下に「誰にかも我が語らひさけむ、孰にかも我が問ひさけむと(宝亀二年(七七一)二月、藤原永手の死に際しての宣命五一詔)」を付加。
『万葉集全解 2』の訂正
◇153頁 巻4・728
「国にもあらぬか」→「国もあらぬか」
◇261頁 巻5・874 現代語訳題詞
「唱和した歌」→「唱和した歌二首」
◇402頁 巻6・1017 脚注部分2行目
「下京区」→「左京区」
◇433頁 巻6・1059 脚注部分7、8行目
「同二十四日」→「同二月二十四日」
「閏正月二十六日」→「二月二十六日」
◇480頁 巻5・800 序原文2行目
「遣之以歌」→「遺之以歌」
『万葉集全解 3』の訂正
◇132頁 巻7・1326 脚注部分
末尾に「▼〔類歌〕→三八一四」を付加。
◇144頁 巻7・1352 脚注部分5行目
「女の心の比喩。」の後に「「蓴繰り 延へけく知らに」(記四四)は、蓴を女の比喩とする。」を付加。
◇156頁 巻7・1377 現代語訳3行目
「身の穢れ忌み」→「身の穢れを忌み」
◇342頁 巻9・1787 脚注2行目
「宇治への道筋。」の後に「城陽市の芝山遺跡近傍の、サギが群棲する池のあたりの坂が「鷺坂」だったとする説(真下厚説)もある。」を付加。