ずいぶん前に、「四国遍路」と題する一文を載せた。そこに、空海は、四国遍路でもそうだが、なぜ、お大師さんとして、人々に親しまれるようになっていくのか、そこがまったくわからない、と書いた。空海の真言密教の神秘主義が、どのような経緯で、人々の共感を生むことになったのか、私の不勉強はあるにしても、その理由を明らかにすることができなかったからである。
たまたま、松長有慶師の『空海』(岩波新書)が手許にあったので、それを開いてみた。松長師は、高野山大学の学長、高野山真言宗管長などを歴任した方で、空海研究にも多くの業績を残している。
ところが、これを一読しても、やはりわからない。松長師は、空海の入定留身(にゅうじょうるしん)の信仰が、お大師さん敬慕の基底にあるとする。空海は、高野(こうや)の奥に、死後もなお爛壊(らんえ)することなく、生けるが如くに瑜伽行(ゆがぎょう)を修しておられる、とする信仰である。釈尊入滅後、弥勒菩薩が出世する(世に現れ出る)までの五十六億七千万年の間、お大師さんは人々の救済にあたられるとする信仰が、その背後にあるとする。松長師は、その根本に、空海の衆生救済の誓願があったことも指摘している。
だが、これだけでは、お大師さんに寄せる衆庶の思い、その信仰の基底にあるものが十分に説明されたとは言いがたい。先のブログにも記したことだが、お大師さんの信仰には、どこか不気味さを感じさせるような伝承が付随しており、お大師さんへの畏怖の念もつよく現れているからである。そのことへの説明が、この本には見られない。
もっとも、この本から学んだことはいろいろある。何より、現代において、仏教――この場合は真言密教の教えになるが、それがいかなる意味をもちうるかが、真摯に説かれているからである。世界を構成するもののすべてに仏性が宿るとする認識(「草木国土悉皆成仏」「一切衆生悉有仏性」)は、自他の区別を超えて、世界そのものが自己も含めて一体化するという意味でもあるが、そうした認識こそが、環境破壊を重ねる現代の人間の生き方への反省を迫る意味をもつとする(多田注:私がそのように読み取ったということで、誤読であれば、乞御容赦)。
ただし、納得できかねるところもある。空海を護国思想から遠ざけようとするのは、先の大戦への反省もあってのことではあろうが、鎮護国家の理念は、空海の中にもあったと見るべきではないか。仏法・王法の相依相即は、この時代の仏教が国家仏教である以上、避けがたく生じたはずだからである。
なお、この本で、伊予親王を「薬子の変に連座して服毒自殺をとげた」(201頁)とするのは、誤解を生じやすい記述である。伊予親王は、薬子の変に「連座」したわけではない。もっとも、これは、編集者が気づくべきところだろう。