信濃追分に山荘を建ててから、四半世紀近くになる。このあたりのことは、あらかた学んでいたつもりだったが、思わぬ出来事が戦後すぐにあったことを知って、驚いた。
しばらく前のことだが、NHK・BSプレミアムで、「新日本風土記 軽井沢の夏」を見ていた。その後半部分で、追分節(おいわけぶし)が取り上げられたのだが、それに続けて、戦後まもない頃に起こった米軍演習地反対闘争が紹介された。浅間山麓を米軍演習地にする計画が持ち上がったのを、地元の青年たちを中心とする組織が反対闘争を起こし、さらにはそれが全県的な運動へと広がりを見せ、その計画を白紙に戻させた。それが、そこで紹介された、米軍演習地反対闘争である。その青年たちのリーダー格であり、闘争においても大きな役割を果たした荒井輝允(あらい・てるのぶ)が、当時のことを振り返り、時には感極まりつつ話している画面に、思わず引き込まれた。
こんな反対闘争があったことを、迂闊にもまったく知らなかった。調べて見ると、荒井には、『軽井沢を青年が守った 浅間山米軍演習地反対闘争1953』(2014年、ウインかもがわ刊)と題する回想録がある。ただし、いまは絶版らしく、手に入れることが出来ずにいた。都立中央図書館に所蔵されていることを知り、このほどやっと読むことができた。
B5の小さな本(全163頁)ではあるが、実に読み応えがある。それによると、この米軍演習地計画には、以下のような背景があったという。朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日休戦)の山岳戦に苦戦した米軍が、その訓練場所を探す中で、浅間山麓を適地と考え、それゆえここを演習地にしようとしたのだという。
1953年4月2日、米軍の担当者が、外務省の役人を同道の上、視察のために、突如やって来る。演習地計画は、それまでは伏せられていたから、地元でそれを知るものはほとんどなかったという。
演習地の予定地、浅間山麓の三石(みついし)、大日向(おおひなた)地区は、戦前、満蒙開拓団として満州に渡った人々が、戦後、引き揚げ者として入植し、多大な苦労の末に切り開いた土地である。そこが演習地として接収されれば、その人々は、生活の礎を築いたはずの土地を、再び放棄せざるをえなくなる。
そこで、三石、大日向地区の青年たち、またそのすぐ下に位置する追分、借宿(かりやど)地区の青年たちが、直ちに反対運動を起こす。その地区の区長を動かし、軽井沢町西地区の反対連合を結成する。4月29日には、軽井沢町の24の集落の区長会議が、さらに5月1日には、町民大会が開かれる。労働団体、婦人団体などの後押しもあり、反対運動は、全県的な規模にまで高まることになる。5月27日には、県民代表者会議が開かれ、同時に反対期成同盟も結成された。
紆余曲折はあったものの、ついに7月11日、外務省の最終判断により、浅間山麓の接収は、取り消されることになる。米軍が、計画からの撤退を正式に表明したのは、7月16日のことである。
荒井の本で知ったことだが、この計画が白紙に戻った、もう一つの理由がある。それは、東大の地震研が、当初からこれに反対していたことである。浅間山は活火山だから、地震研はそこに観測所を設置していた。そこが米軍の演習地になると、演習の際の振動によって、観測の役割が果たせなくなるというのが、反対の理由である。
外務省の国際協力局長が、6月17日の法務委員会で、「地震研究と両立不可能なら(演習地として)使用せず」と言明しており、このあたりから、白紙撤回に向けた動きが進んでいたらしい。
7月11日の外務省の最終判断は、接収を取り消す理由として、地震研の観測に影響が及ぶことを挙げている。反対運動について、まったく触れるところがないのは、政府の面子(めんつ)を保つ形にしておきたいためだろう。実際には、反対運動の高まりが、大きな理由であるはずだが、それをあからさまに表明することは、米国従属の姿勢を維持しようとする政府にとっては、受け容れがたいところだったのだろう。
ここからは、このブログ「コリーニ事件・続」に記したことと重なる。戦後の逆コースの流れの中で、公職追放を解除された連中(とりわけ、岸信介のような政治家)などが、戦前の利権を維持したまま復権し、そうした連中によって、米国にひたすら従属する意識が生み出されたことは、まさしく戦後の恥ずべき歴史というべきだろう。日米地位協定のような不平等な協定は、同じ敗戦国であるドイツなどには存在しない。
浅間山麓を米軍の演習地にしようとする計画は、不平等条約の典型である日米安保条約(1951年発効)の行政協定にもとづく米軍の要求であり、これへの拒絶権は、もともと日本にはなかった。
そうした状況を知りつつも、反対運動に挑んだ青年たちの行動は、実に勇気あるものといえる。その運動が、軽井沢町から県全体に波及し、結果として、計画を白紙に戻させたのだから、地震研の反対の動きがあったとはいえ、戦後民主主義が機能していた時代を象徴するたしかな事例と言える。
もう一つ、荒井の本を読んで、意外に思ったことがある。それは、当初、軽井沢町の町長たちに、軽井沢への米軍の駐留を歓迎しようとする動きがあったことである。
この演習地計画の前年、1952年の2月、軽井沢の佐藤町長は、演習地誘致を、町議会に諮(はか)ることなく、秘密裏に外務省に陳情し、それが演習地問題のそもそもの発端になっていたという。
当時、万平ホテルなどは、米軍の接収下にあったが、町長たちは、米軍を駐留させることで、町が繁栄すると考えていたという。ただし、その繁栄とは、かつての(近世の)追分宿の賑わい――大勢の飯盛女(めしもりおんな、娼婦)で賑わう宿場町のありかた、それを意識していたという。反対闘争の中で、「パンパン(街娼、娼婦)の町にするな」というスローガンが現れるのは、そのためである。NHKの「新日本風土記」にも、そうしたスローガンを記した看板の写真が映っていたように思う。飯盛女の悲哀を歌った追分節の直後に、それと連続するかのように、この反対闘争の経緯が紹介されているのは、その連関を意図した構成であるに違いない。
さらにこの本には、戦後の青年たちの、並々ならぬ向学心を示す記事もあって、そこがなかなか興味深い。荒井たちは、当時追分区長を務めていた橋本福夫(アメリカ文学者、後に青山学院大学教授)を師と仰ぎ、追分で「高原宿」と称する勉強会を開いていたという。週に一度の開催で、20人ほどの参加者があり、1948年から三年ほど続いたという。橋本はもとより、講師はまったくの無償であったというから驚く。しかも、その陣容がすごい。橋本の人脈だというのだが、佐々木基一、山室静、福永武彦、矢内原忠雄などの名が出て来る。
こうしたことが当時ありえたというのも、戦後民主主義の一つの現れというべきなのかもしれない。そこで培われた思想が、おそらくは米軍演習地反対闘争を支える精神的な支柱になっていたのだろうと思う。
全体主義に傾斜しつつあるいま(このブログ「全体主義国家・日本」「同・続」に記した)、「民主主義が機能していた時代」が、確かにあったと知ることは、あらためて意味あることであるように思う。