こうして死にかかってみると(先のブログに記した)、流行(はやり)の言葉ではあるが、そろそろ「終活」とやらを、真剣に考えないといけないのかもしれないと思うようになった。蔵書をどう始末するかが最大の難問だが、うまい方法がなかなか思いつかない。家の一軒分くらいは、本に投資したはずだが、大昔とは違い、古本屋に本を売っても、当節は二束三文にしかならないらしい。それどころか、こちらがお金を出して、引き取ってもらう場合もあるのだという。もっとも、何とか命がつながったのだから、あと何年かは、このまま研究生活が続けられそうである。それで、本の始末には、なかなか踏み込めずにいる。
蔵書ほどではないが、音楽会などのプログラム類も、段ボールの箱に入れたものが、何箱もある。六十年以上も通いつめていたのだから、そんな量になっていてもおかしくない。
海外のオペラハウスやバレエ団の引っ越し公演の際のプログラム類は、どれも豪華で分厚い。おまけに、よい紙を使っているから、ひどく重い。そんなのをたくさん入れた箱は、持ち上げるのも大変である。
このプログラム類を、整理しようと、箱を開けてみた。どれを見ても懐かしい思いがする。とりわけ、中学生の頃に通ったコンサートのプログラムは、当時の記憶が呼び覚まされ、廃棄するのをためらう気持ちが起こってくる。だから、ここでも「終活」はなかなか進まない。
そのプログラムの中には、指揮者のサイン(autograph)のあるものが四部(四冊?)ほどある。いまとなっては、このサインは、なかなか貴重だろうと思う。
いずれも、1963(昭和38)年、中学二年生の時にもらったサインである。楽屋に押しかけて、サインをしてもらった記憶がある。会場は、すべて東京文化会館である。
だが、なぜ、この年に限られるのか。おそらく、こうした振る舞いを、これ以後、恥ずかしく思うようになったからだろう。
サインをもらった四人の指揮者なのだが、このうち三人はもう亡くなっている。その意味でも貴重なのだが、演奏会そのものが、破格なものであったことが、いま振り返るとわかるからである。
順番に記してみる。まず、若杉弘。1963年3月の東京交響楽団第128回定期演奏会である。この演奏会は、一般には、若杉のデビュー・コンサートとされている。もともとは、上田仁(うえだ・まさし)の指揮で、前年に作曲された、ショスタコーヴィチの新作、交響曲第13番の日本初演を目玉に据えた演奏会だったのだが、期日までに、その楽譜が届かず(この交響曲は声楽を伴うが、その「反ユダヤ主義」批判の歌詞がソビエト国内で問題とされた)、急遽演目を差し替えることになった。たまたまこの年、若杉が、ミトロプーロス指揮者コンクール(ニューヨーク)に派遣されることになったので、それを応援する意味で、若杉に指揮を委ねたのだという。その経緯が、プログラムに詳しく記されている。岩城宏之、芥川也寸志の応援の弁も載っている。
演目の中心は、ストラビンスキーの「ペトルーシュカ」だったが、芥川がそれを「ピノキオの決闘」と評しているのも面白い。痩身の若杉のあだ名はピノで、そこで「ペトルーシュカ」に挑むさまを、「ピノキオの決闘」に喩えたらしい。
楽屋でサインをもらったのだが、若杉の対応は実に丁寧だった。そのサインもなかなか凝ったもので、名だけをサラッと記したものとは、随分と趣きが違っている。その意味でも貴重である。
次が、イタリアの指揮者フェルナンド・プレヴィターリ(Fernando Previtali)である。若杉弘の演奏会の翌月、4月の東京交響楽団第129回定期演奏会でサインしてもらった。プレヴィターリは、当時は、サンタ(聖)・チェチーリア(音楽院)管弦楽団の指揮者だった。だが、プレヴィターリは、もともとはオペラ畑の指揮者であり、スカラ座をはじめ、多くのオペラハウスで指揮している。後には、コロン歌劇場などの首席指揮者も勤めている。この時の演目は、ブラームスの交響曲第4番を中心に据えてはいるが、二つのイタリアものが(日本)初演されていることが注意される。ボッケリーニの交響曲第2番とレスピーギの喜歌劇「ベルファゴール」序曲である。最後に演奏されたのが、ヴェルディの歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲で、これはさすがというべきか、圧倒的な名演だった記憶がある。それで、楽屋まで行って、サインをおねだりした。たぶん、片言の英語で話したのだろう。前月、若杉からサインをもらった経験も後押ししたに違いない。
三番目が、やはり同じ4月のロンドン交響楽団の来日公演、その東京公演初日の、アンタル・ドラティ(Antal Dorati)である。いわずと知れた、ハンガリー出身の名指揮者である。この時は、プログラムと入場券の双方にサインしてもらった。
東京公演初日ということもあり、この時は、最初に日英両国の国歌が演奏された。まだ、海外オーケストラの来日公演が、相互の国の文化交流の場として意識されていた時代である。国歌がこうした折に演奏されたことについては、以前のブログ「国歌と国旗」でも記した。そこにも書いたことだが、演目の最初に演奏されたヘンデルの組曲「水上の音楽」(プログラムには「水の上の音楽」(ハーティ編曲)とある)から受けた感動は、いまも忘れがたい。本家本元の演奏ということもあるが、当時の日本のオーケストラでは、到底出せない響きに驚いたからでもある。その時のドラティの左手の動きは、まだ目に焼き付いている。
最後が小澤征爾である。この年の11月のものである。小澤征爾のサインなど、めずらしくないと思われるかもしれない。だが、この時のものは、やはり特別なのではないかと思う。
その理由を記す。演奏会は、11月13日の「小沢征爾指揮東響特別演奏会」(プログラムは、なぜか「小澤」でなく「小沢」と表記)である。小澤が、東京交響楽団を指揮したことが、まず異例だからである。
小澤は、その前年、NHK交響楽団と客演指揮者の契約を結んだが、楽団員からの激しい反撥を受けて、半年ほどで契約は打ち切りとなり、アメリカに戻るという事件があった。この事件の真相はよくわからない。海外の公演先で、「春の祭典」の変拍子を振り間違えたとか、芸大出身者が主流のN響の楽団員が、桐朋学園出身者である小澤を快く思わなかったとか、あるいはあの指揮のパフォーマンスが、保守的な楽団員には面白く思われなかったとか、いろいろと取り沙汰されるところはあるものの、真偽のほどはわからない。
小澤が、N響を追われたあと、日本のオーケストラで、小澤が深い関係を持ったのは、日本フィル(分裂後は、新日本フィル)である。だから、その小澤が、N響事件の翌年、こうして東京交響楽団を指揮したというのは、やはり異例と見てよい。反対からいえば、その後、どうして小澤と東響との関係が続かなかったのかが、疑問として残る(東響がTBSから専属を打ち切られ、有限会社として再発足するという、苦難の歩みとも関係するかもしれない)。
この時の演目は、ベートーヴェンの交響曲第1番、ラヴェルの「道化師の朝の歌」、それにフランクの交響曲だった。「道化師の朝の歌」が、これも小澤の指揮ぶりとともに、その鮮やかな音の色彩が、これまた脳裏に残っている。
小澤は「小澤セイジ」とサインしてくれたが、「日付もお願いします」という、図々しい要求に応えて「1963.Nov.13.」と名前の下に記してくれた。
この四人の指揮者のサインの入ったプログラム(ドラティのは入場券もだが)を取り出して、過去を振り返ってみると、どれも小さくはあるが、日本の音楽史あるいは文化史の一面を照らし出す意味があることに、あらためて気づかされた。
処分するつもりで箱を開けたのだが、そこでまた捨てられなくなってしまった。さてさて、困ったことである。