研究

「たまゆら」と髪長比売と①

投稿日:2023年11月15日 更新日:

11月3日に、宮崎市の「神話のふるさと県民大学」で、「「たまゆら」と髪長比売と」と題して講演をするはずだった。このブログにも記したように、重度の肺炎で入院生活を送っていたため、現地に出向くことができなかった。ただ、講演のために用意した原稿があったので、当日は大館真晴氏(宮崎県立看護大学教授)が、それを代読してくれた。大館氏には、感謝の言葉もない。
この原稿、そのままにしておくのも惜しいので、このブログに四回に分けて、掲載することにする。特段の新見があるわけではないが、とりあえず「研究」に分類しておく。
………
この六月、宮崎で古事記学会の大会が開催され、宮崎観光ホテルに二泊した。
高層階の部屋の窓からは、大淀川の広々とした流れが見渡せて、なかなか気分がよかった。
ホテルの玄関の正面、大淀川の土手の下に、記念碑のようなものがあるので、何かと思って近づいてみた。すると表に大きく「たまゆら」とあり、その横に小さく「川端康成文学碑」と刻まれていた。裏には、その碑を建てた経緯が、次のように記されていた。

昭和三十九年十一月 ノーベル文学賞受賞作家の川端康成は この地を訪れて 十五日間滞在し NHK朝の連続テレビ小説「たまゆら」を執筆した
「たまゆら」のテレビ放映は 宮崎への新婚旅行ブームに一層拍車をかけ 観光宮崎の礎となった
この碑は 川端康成をしのぶとともに宮崎の自然の美しさをたたえ 建立するものである
昭和六十二年十一月十六日     宮崎市

これによって、この碑が建立された経緯がわかった。川端康成は、この地を訪れて十五日間滞在したとあるのだが、その滞在先は、宮崎観光ホテルであった。それで、この場所に、この碑が建てられたらしい。
さらにこの碑の裏には、小説版「たまゆら」の一節も刻まれている。

そこで、この川端康成のNHK朝の連続テレビ小説「たまゆら」である。昭和四十年四月五日から、翌年四月二日まで、川端の書き下ろしの新稿をドラマ化したものという。主演は、笠智衆(りゆうちしゆう)。「おはなはん」の前年の放映作である。「おはなはん」は、ずっと見ていたが、「たまゆら」の記憶はまったくない。

その「たまゆら」は、NHKにも録画がまったく残されておらず、台本も公刊されていない。ただし、川端自身が、おかしな話ではあるが、ドラマの展開に次第に齟齬を感じるようになったらしく、そのドラマの放映中に、その書き下ろし新稿をもとにした小説を、「小説新潮」に公表している。遺憾ながら、これも未完に終わるのだが、それでもこの連続テレビ小説「たまゆら」の最初のあたりの展開を知ることができる。先の「たまゆら」の碑の裏に刻まれた一節は、その最初に近い部分を抜き出したものである。

それによると、冒頭は、新婚旅行で、宮崎にやって来た若夫婦が、大淀川横の観光ホテルに宿泊する場面から始まる。宮崎観光ホテルが舞台であるのは、あきらかである。この二人は見合い結婚で、見合い後、二月ほどで結婚したらしいが、その間、三度ほどしか会っていないという。当時の見合い結婚とは、そんなものだったのかもしれない。

若夫婦は、大淀川べりの散歩に出るのだが、そこでベンチに座る老人を見かける。夫の父親は、十四年ほど前に失踪しており、その老人が父親に似た面影だったので、夫は思わず声を掛ける。実は、まったく無関係な老人だったのだが、この若夫婦と、同じ飛行機で宮崎に来て、同じホテルに宿泊しているのだという。
この老人、直木老人というのだが、会社を退職して、すぐに宮崎への旅に出たのだという。この直木老人が、「たまゆら」の主人公で、笠智衆が演じたのだろう。

ここで、新婚旅行の若夫婦は姿を消してしまい、以下、直木老人とその家族の話になる。直木が宮崎に来たのは、神話の国「日向」を訪れたいと思ったからである。文庫本の『古事記』を持参している。直木は、退職したとはいえ、ただの会社員ではなく、どうやら大きな会社の経営の一翼をを担うような役員として勤めていたように見える。資産もかなりあるらしく、自宅は鎌倉にあり、娘を京都のそれなりの家に嫁がせたりしている。
直木は、大学は法学部の出身だが、学生の頃に、『古事記』を読んだことがあるという。それが、退職後の旅先に、宮崎を選んだ理由であるとある。
直木は、ホテルの朝、部屋の窓のカーテンを開いたとたん、「朝日の直射(たださ)す国、夕日の日照(ひて)る国」とつぶやく。以下、原文を引用する。

「古事記」の神話にある、高天原から邇邇芸命が日向に降臨しての言葉、今も日向をたたへるのに必ず引かれる言葉、そしてまた直木を宮崎の旅に誘ったやうな言葉であった。

そこで、直木は、『古事記』神話の原像を求めて、イザナキが黄泉国(よもつくに)(黄泉(よみ)の国)のケガレを除却するためにミソギをした場所「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばなの)小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)」に比定される大淀川河口付近、さらには日南海岸のあたりを訪れたりしている。「八紘一宇の塔(平和の塔)」なども訪れている。イザナキ、イザナミの国生み神話、イザナキの黄泉国(よもつくに)訪問譚については、直木のずいぶんと踏み込んだ感想も記されている。

さて、ここではまず、直木のつぶやいた、日向を讃美する言葉の意味から考えてみよう。
「日向」は、いまはヒュウガと読まれるが、古くはヒムカである。それゆえ、ここでもヒムカと呼ぶことにする。ヒムカは地名だが、神話の時代には、南九州一帯を指す言葉だった。もともとは、現在の宮崎県、鹿児島県、さらには熊本県南部の一部をも含む、大きな地域名であったと見られる。

ヒムカの語義は、日が向かう、日に向かうの両様があるようだが、日に向かう意と解してよいように思う。そこで、その言葉の意味するところから考えてみたい。そこには、古代の日本人の太陽信仰のありかたが現れていると考えられるからである。そこで、「たまゆら」に引用されているところを、『古事記』の記事から確認してみたい。

天孫ホノニニギ(天津日子番能邇邇芸命(あまつひこほのににぎのみこと)。なお、天孫には、アマテラスの子孫の意もあるが、ホノニニギは実際にもアマテラスの孫にあたる)が、アマテラス・高木神の指令により、この地上世界に降臨する場面である。

故(かれ)、しかして、(アマテラス・高木神は)天津日子番能邇邇芸命(あまつひこほのににぎのみこと)に詔(の)らして、天(あめ)の石位(いはくら)(高天原の神の座)を離れ、天(あめ)の八重(やへ)たな雲(ぐも)を押し分けて、いつのちわきちわきて、天浮橋(あめのうきはし)にうきじまり、そりたたして、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)のくじふるたけに天降(あまくだ)り坐(ま)さしめたまひき。……
ここに詔(の)らししく、「此地(ここ)は韓国(からくに)に向ひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)に真来通(まきとほ)りて(笠沙の岬にまっすぐに通じていて)、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照(ひで)る国ぞ。故(かれ)、此地(ここ)はいと吉(よ)き地(ところ)」と詔らして、底つ石根(いはね)に宮柱(みやばしら)ふとしり、高天原(たかあまのはら)に氷椽(ひぎ)たかしりて坐(いま)しき。(多田一臣『古事記私解Ⅰ』、花鳥社)

「日向の高千穂」は、現在の宮崎県北部の高千穂とする説もあるものの、霧島山連山の高千穂峰の嶺とされている。「くじふるたけ」は、その名に違いないが、どのような命名意識があるのか、わからない。
いずれにしろ、ホノニニギが、筑紫の日向(ひむか)の地に降り立ったとするところに、大切な意味がある。そこで、「日向(ひむか)」だが、先にも述べたように、ここには日に向う地の意味がある。つまり日神(ひのかみ)(太陽神)信仰に根ざした、神話の上の地名である。

これに続くホノニニギの言葉、「此地(ここ)は韓国(からくに)に向ひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)に真来通(まきとほ)りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照(ひで)る国ぞ。故(かれ)、此地(ここ)はいと吉(よ)き地(ところ)」が、「たまゆら」の直木老人のつぶやきに出て来た言葉だが、ここには土地讃めの意味がある。「韓国」は、朝鮮半島を指す。「笠沙(かささ)の御前(みさく)」は、現在の鹿児島県南さつま市(旧川辺(かわなべ)郡)笠沙町野間岬に比定されている。そこは、笠沙の岬にまっすぐに通じている場所だというのである。日向の地が、南九州一体を指す言葉だったことが、このあたりからもわかる。

そこで、「朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照(ひで)る国」の意味である。朝日・夕日に照らされることが、祝福的な意味をもっていたことが、ここからわかる。『古事記』の歌謡にも、「(纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮は)朝日の日照る宮 夕日の日がける宮」(記一〇〇)とあり、また『皇太神宮儀式帳』にも、「(伊勢国は)朝日の来向かふ国 夕日の来向かふ国」(『皇太神宮儀式帳』)とある。天皇の住まう宮、あるいは皇祖神が鎮座すべき土地を讃美する詞章である。朝日・夕日に照らされることが、祝福的な意味をもった。これも日神(ひのかみ)(太陽神)信仰の現れと見てよい。*「纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮」は景行天皇の宮

このことが、実は、『古事記』の後の展開にかかわってくる。神武天皇、即位以前は、カムヤマトイハレビコだが、この日向(ひむか)の地を離れて、大和へと向かう。いわゆる神武東征である。それでなぜ、神武天皇は、東へと向かうのか。
神武東征が行われる理由は、大和が王権の中心であることを意味づけるところにあることは確かだが、とはいえ、その根本には、東を理想の地と見る心意がある。なぜ東が理想の地とされるのか。
その根底にあるのは、日神(ひのかみ)(太陽神)に対する信仰にほかならない。西郷信綱『古事記注釈』第三巻(平凡社)が、「ここには太陽とそれの昇るヒムカシをよしとする志向がうかがえる」と説いている通りである。

そのように、大和が王権の中心と定められた後(のち)も、その東の方角にある伊勢が、王権の聖地として定位される。いうまでもなく、伊勢は大和のほぼ真東の方角に位置する。伊勢こそは、「朝日の来向かふ国 夕日の来向かふ国」(『皇太神宮儀式帳』)にほかならないからである。

さらに、記紀などの神話大系において、東の地が常に「日高見(ひだかみ)の国」と呼称され、そこが理想の地として意識されていることも注意される。「日高見の国」とは、日(太陽)が高く昇る国の意だが、たとえば祝詞「大祓詞(おおはらえのことば)」には、ホノニニギの天孫降臨を説いた後(あと)に、「かく依(よ)さしまつりし(このようにお委ねになりお下しになった)四方(よも)の国中(くになか)に、大倭日高見(おほやまとひだかみ)の国を安国(安らかな鎮まりの国)と定めまつりて…」とある。ここにいう「大倭日高見の国」とは、文脈から判断して大和の中原、すなわち大和国を意味する。「四方の国中に」とあるのは、多くの国々の中から大和国を選ぶ国讃(くのぼ)めの様式的表現である。ここでの「大倭日高見の国」は、天孫降臨の地である日向(ひむか)から見ての呼称になる。

東を理想の地とし、そこを「日高見の国」と呼ぶことは、さらに東の地を意識することになる。『常陸国風土記』信太(しだ)郡条の佚文によれば、そこは「もと日高見の国」と呼ばれていたという。そもそも、常陸は物産の豊かな理想の国とされた。『常陸国風土記』総記は、

謂(い)はゆる水陸(うみくが)の府蔵(くら)、物産(くにつもの)の膏膄(ゆたかなる)くになり。古(いにしへ)の人、常世(とこよ)の国と云へるは、蓋(けだ)し疑はくはこの地(ところ)ならむか。

と称(たた)えて、ここを海の彼方の理想郷である「常世の国」に擬している。折口信夫氏は、古代の日本人には、気候がよくて物資の豊かな住みよい国を求めて、東へ東へと進んで行こうとする心意が存在したこと、その東への行き足が久しく常陸国で停まり、その周囲に「常世」「日高見の国」の所在が意識されたと指摘している。伊勢国は、「日高見の国」とは呼ばれていないものの、「常世の浪」が絶えず寄せる国とされたから(『伊勢国風土記』佚文)、そこもやはり常世に接する国と捉えられていたことがわかる。なお、折口氏が、「その東への行き足が久しく常陸国で停まり」と説いているように、「日高見の国」は、そのさらに東に幻想されるようになる。ヤマトタケルの東征譚では、常陸国のさらに北、蝦夷(えみし)の支配する地域が「日高見の国」とされている。ここには、東に向けて絶えず辺境を拡大してきた大和の王権の、領土に対するつよい願望が現れているともいえるが、その根底には、西郷信綱氏が述べるように、「ここには太陽とそれの昇るヒムカシをよしとする志向」があることを押さえておかなければならない。

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