以下に述べる内容は、過激でもあり、しかもまったくの「上から目線」に立っている。だが、私はそれでよいと思っている。大衆化したこの日本の危機的なありかたに、大きな危惧を覚えるからである。
先のブログ「社会の木鐸」で、ジャニーズ事務所の性加害問題の報道について述べた。この問題のもっとも大事なところは、あらゆるメディアが、芸能界を支配するジャニーズ事務所への過剰な「忖度」を行ったところにある。ところが、昨今のメディアの論調は、おのれの過去を反省するどころか、ひたすらジャニーズ事務所の責任を追求するところに向かっている。責任を取るべきは、むしろ、性加害の実態を知りつつ、ひたすらそれに触れまいとしたメディアの側だろう。
ジャニーズの新・旧のタレント連中が、芸能界から消え去っても、私などには痛くも痒くもないが、多くの大衆は、それでは困るというのだろう。テレビなどの、スポンサーもそうした大衆に阿(おもね)ることを常とするから、そこでさまざまな「忖度」が、結果として働くことになる。そうした大衆、あるいはそれ以上に、その意向を体したメディアが、今度は手のひらを返すように、ジャニーズ事務所の責任を追求する側に回るというのは、あきらかにおかしい。おかしい以上に怖ろしい。そのありかたこそが、ポピュリズムそのものの現れだからである。
大衆社会は、一方的な気分や情調に、たやすく流される。それが、ポピュリズムの本質でもあるが、怖ろしいと述べたのは、それがいまの日本を動かしているからである。それゆえ、このジャニーズ事務所の問題は、小さなことのようだが、「全体主義国家・日本」のありようとも、あきらかに結びつく。
前にどこかに書いたことがあるが(このブログではない)、郵政民営化を争点に総選挙が行われた際、小泉政権が圧勝したことがある。選挙戦最後の日、たまたま池袋の駅頭にいたのだが、多くの群衆(差別的な言い方をあえてするが、大半が「おばさん」たち)が、大袈裟にいえば目を血走らせて、小泉の選挙カーに殺到していく場面に、真正面から遭遇した。つまり、反対方向から押し寄せる群衆とまともに出くわす形になったのだが、その時、もし戦時下であれば、私など、国防婦人会あたりから、「非国民」と糾弾されるに違いないと、本気でそう思った。
いまや世の中の趨勢が右を向けといえば、誰もが右を向く。そのことへの反省はどこにもない。これが「民主主義の危機」でなくて、何であろう。
ここで、思い出したことが一つある。これも東大退職に近い頃、教授会で、学生の授業評価のアンケートを行うことが、執行部の方針として提示されたことがある。
大学はもはや大衆化し、かつてのようなありかたは失われつつあったから、大学もまたすべからく学生に奉仕すべきだとする意見が、大きく広がっていた時期にあたる。
だが、本来の大学とは、学生に迎合する場ではないはずである。その時の説明によれば、その授業評価とやらは、学生の不利益にならないよう、匿名にするのだという。しかも、大学院にまで、その評価を行うのだという。
しかし、授業評価のような愚劣なことをしなくても、教員に言いたいことがあれば、自由に発言することこそが、学生本来のありかたであったはずである。
大学闘争を経験した側からすると、もし私が学生の立場で、この授業評価のアンケートの話を耳にしたら、おそらく「俺たちを、馬鹿にするな!」と怒りの声を挙げたはずである。いまや学生は、そこまで見下されるような存在に成り下がったのか、という思いも同時に浮かんだ。
その教授会では、S先生がすっくと立ち上がり、「私はこのアンケートはしません。いかなる処分も受けます」と発言した。実に立派な発言だと、感動を覚えた。
そうしたS先生の発言はあったものの、このアンケートは、実施されることになった。だが、私は退職するまで、授業評価のアンケートには、一切協力しなかった。それを理由に、処分されることもなかった。そこは、さすがに東大だと思う。その代わり、学生には、なぜアンケートを行わないのかという理由を、きちんと説明した。
東大を退職してから10年ほどが経つ。いまは、どうなっているのだろうか。授業評価アンケートは、当然のこととして行われているのだろうか。
大学の大衆化はますます進み、大学はすべて横並びでなければならないとする、これまたポピュリズム的な思考が蔓延しているから、大学の質はどんどんと下がっているに違いない。悪平等は、質を押し下げる方向にしか働かない。
ポピュリズムこそが、「民主主義の危機」を生み出す最大の要因であることを、いまこそ肝に銘じなければならない。ジャニーズ事務所の性加害問題の報道のおかしさも、根は同じところにある。