「他人とかかわるのは厭だ」というのは、私自身の思いではない。
ここでもまた世代論になって恐縮なのだが、若い世代についての話である。若い世代が、そうした思いをつよく抱いているのではないか、ということを、ここで述べてみたい。
先日、YAHOOトピックスの記事を見ていたら、「自転車が「歩行者にベル鳴らす行為」はNG! 過去にはトラブルも!?」という見出しが目に入った。出典は「くるまのニュース」とある。
内容を簡単に紹介すると、ある中年の男が歩道を歩いていたら、自転車に乗った若い女が、後ろから追いついて、ベルを鳴らした。そこで、男が怒って、「通りますと声に出して言えばいい」と声を上げ、自転車の前カゴに手を掛けたので、ちょっとしたトラブルになった、という記事である。
こうした場合、女がベルを鳴らすのは、道路交通法の違反行為にあたる。自動車が、むやみに警笛を鳴らしてはいけないのと同じである。前カゴに手を掛けたのはまずいが、男が文句を言っても、だから、おかしくはない。
だが、この記事へのコメント、いわゆるヤフコメを見ると、男を批判する意見が多く見られる。
中には、頑固そうな爺さんなどが、「どけ!、どけ!」とばかりに、どこでもやたらにベルを鳴らして、むしろうるさいという、やや筋違いの反撥の声もあったりする。
肝腎の男への批判だが、「ベルを鳴らされたら、素直に避(よ)けてやればいい。そんなことにいちいち目くじらを立てるのはおかしい」というところに帰着する。
そこで、思い当たったのが、標題とした「他人とかかわるのは厭だ」である。ベルを鳴らした女も、男を批判するヤフコメ民も、その根っこには、この思いがあるのではないか。
後ろからベルを鳴らされたら、その中年の男と同様、私も腹が立つ。なぜ「すみません、通して下さい」と言えないのか。ベルを鳴らされても、その音は意味ある言葉ではないから、先の頑固そうな爺さんと同様、「どけ!、どけ!」と言っているように受け取られてもおかしくない。
ベルを鳴らした女は、言葉を掛けることに、無自覚ではあっても、どこかに心理的な抵抗があるのだろう。なぜなら、言葉は、人間関係を否応なしに作り出すからである。「ベルを鳴らされたら、素直に避(よ)けてやればいい」というヤフコメ民の反応も、この女と根を同じくすると見てよいだろう。
人間関係をできるかぎり限定的に留めておきたいとする、若い世代に共通する意識が、そこにうかがえる。
知らない人間とは、言葉を交わしたくない。それゆえ、電話を掛ける場合も、相手の家の固定電話には、まず掛けない。誰が出て来るかわからないからである。そこに不安を覚えるのだろう。そこで、最初から相手が確認できる、携帯電話(スマホ)が優先されることになる。
仕事の上で、相手がわかっている場合でも、親しくない場合は、電話ではなく、なるべくメールで済まそうとする。言葉を交わすことは、繰り返すように、人間関係を作り出すことであり、若い世代には、それが鬱陶しく思われるからだろう。
以前、テレビの「NCIS(Naval Criminal Investigative Service 海軍犯罪捜査局、海軍や海兵隊が関係する犯罪の捜査を行う機関を舞台とするドラマ)」のシリーズを見ていたら、その中に、主人公ギブスの親友、FBI捜査官のフォーネルが、部下の若い女を叱りつける場面があった。犯罪の重要な情報を、フォーネルにメールで送ったため、捜査に大きな遅滞を生じさせてしまったからである。「なぜ、電話ですぐに知らせないのだ」と、フォーネルが怒っていたことを、ここでも思い起こす。アメリカも日本も、世代の違いは同じらしい。
もっとも、知らない人間とは言葉を交わしたくない、という若い世代は、かなり前から存在している。
種村直樹『鈍行列車の旅』(JTB)は、ずいぶん昔の本(国鉄時代の1979年刊)だが、そこに以下のような一節があり、ずっと印象に残っている。
著者の種村氏は、1936年生まれのレールウェイ・ライター(元毎日新聞記者、故人)だが、若い世代(種村氏はヤングと呼んでいる)の鉄道ファンと、屢々(しばしば)行(こう)を共にしており、その記録が、ここに収められている。
種村氏は、ある時、北川君というヤングと、YH(ユース・ホステル、これもいまや絶滅寸前らしい。封筒状の、スリーピング・シーツを持参するのが原則だった)を初体験する旅に出るのだが、降り立った駅(京福電鉄三国駅)で、案内役の北川君が、そのYHへの道を、なかなか見つけることができない。以下、引用する。
その駅からは、北川クンが案内人をつとめることになり、薄暗くなりかけた北陸の町を歩いたのだけれど、ユースホステルの所在は判然としない。分からなければ、適当な人をつかまえて、どんどん聞けばいいのに、自分で見当をつけようとするから、まどろっこしい。北川クンにかぎらず、ヤングと一緒に行動していて、いつも気になるのは、道をたずねないこと。そのくせ、こっちでいいんでしょうねなどと、時々情けなさそうな声を出す。そんなひまがあれば、地元の人にたよることだ。
見知らぬ人間と言葉を交わすことへの、若い世代の抵抗感が、この頃からあったことがわかる。種村氏と同様、道がわからなければ、私もすぐ人に尋ねる。
「他人とかかわるのは厭だ」というのは、他からの干渉をできるかぎり排除したいとする思いでもあるが、それを貫き通すことは、実のところ難しい。なぜなら、人は一人では生きることのできない動物であり、社会を構成しないかぎり、人はこの世に存在することができないからである。「人間(じんかん、にんげん)」「世間(せけん、よのなか)」という言葉も、そのような意味合いを含んでいる。
社会の基本は人間関係にあるから、他者とかかわらないありかたなど、原理的にありえない。とはいえ、若い世代に限らず、それを面倒だと感じる人びとが、いまや確実に増えている。そうした現実を、どう評価すべきか。なかなか厄介な問題である。
自転車のベルを鳴らすこと、その背景を考えるところから、大きな問題に行き着いてしまった。何と大仰な、と感じられるかもしれないが、見当違いとは思っていない。