また過激な政治的発言である。以前、「民主主義の危機」「ヒトラー『わが闘争』」「民主主義の危機・再論」などで述べたことの、繰り返しである。
標題にした全体主義とは、この言葉の定義からは、やや外れているかもしれない。しかし、近年、あらゆるところで、国民すべてを、政権の意向に従わせようとする動きが顕著になりつつあるから、それを全体主義と呼んでもおかしくはないように思う。
しばらく前だが、東大法学部を卒業して、いわゆるキャリア官僚の座を目指そうとする学生がずいぶんと減少したという報道記事を見た。高級官僚となることの魅力が、徐々に薄れてきたためだとする解説もあった。
まったくそのとおりだと思う。もともと日本の官僚はきわめて優秀であり、時として愚かな政治家の振る舞いを、掣肘(せいちゅう)する役割を果たすこともあった。そうした権限も、実際、彼らにはあった。
ところが、愚かな政治家は、悪智恵を廻(めぐ)らす才にだけは長(た)けている。いや、愚かなというより、むしろ小心者と呼ぶべきなのかもしれない。
その悪知恵とは何か。高級官僚の人事を内閣人事局が一元的に管理するシステムを作り上げたことである。2014年の第186回国会における「国家公務員法」の一部改正、それに伴う「内閣法」の改正によって、このシステムが成立した。各官庁の課長職以上の600名の人事管理が、内閣によって一元的になされることになった。
これを主導したのが、先に暗殺された安倍であり、その黒幕であった菅である。この二人こそ、悪知恵の働く、小心者の典型である。それゆえまことに始末が悪い。第一次安倍内閣が失敗した、その轍(てつ)を踏まないために考え出したというのだが(真偽のほどはわからない)、第二次以降の安倍政権は長期化したから、その目論見は当たったいえるのだろう。
こうなると、政権を担う者どもは勝手放題、それをおかしいと思っても、官僚は何一つ口を挟めない。異論を唱えれば、無事では済まないから、自ずと口を噤(つぐ)むことになる。中には、小狡(こずる)く立ち回って、政治家のご機嫌を取る者までが現れる始末。その一端は、森友・加計学園問題でも、露呈したとおりである。「忖度(そんたく)」という言葉が、一時、流行語にもなった。
いまや財政破綻は明らかなのに、財務官僚も何も言えない。以前はそんなことはなかった。大蔵省時代の官僚には、国債を乱発する内閣の暴走に歯止めを掛けようとする一言が必ずあった。もはや悪知恵には勝てないということだろう。
キャリア官僚になることの魅力が薄れたというのは、だからよくわかる。
教育の面でも同様である。小学校から始まった、教育の支配統制のシステムは、ついに大学にまで及んだ。高校以下では、かつて職員会議が保持していた役割を奪い、校長等の管理職に、あらゆる権限を集中させたが、それが大学にまで及ぶことになった。
大学の教授会は、いまや教学面についての限定的な役割しか与えられていない。学長の選任も、大学構成員の選挙に基づくのではなく、最終的には外部者も加えた別の組織が決定するよう定められた。学長の権限はきわめて大きくなったが、結果的に、文部科学省(日本語の論理を逸脱した、愚劣な省名である)の意向に、そのまま追随せざるをえないようなシステムに変えられた。すべての大学が、あの悪名高いかつての筑波大学方式に改められたといえば、適切な比喩になるだろうか。国立大学に限られたことではあるが、当時、国立大学協会が、何の抵抗もしなかったことは、いま考えても不思議である。
このブログとは別のところに書いたことだが、大昔の東大総長は、建前上はともかくも、世間的には文部大臣よりずっと上の存在だった。東大総長が、文部省に出向いたりすることなど、まずありえなかった。用があれば、大臣や次官の方が大学にやって来た。卒業式や入学式の総長告示が、そのまま新聞に紹介されていた時代の話である。
以上述べたことは、ごく一部のありように過ぎないが、それでも全体主義に傾きつつある日本の現状をよく示す事例のように思われる。いまや、あらゆるところで、上(かみ)のご意向を「忖度」するような姿勢がうかがえるようになったからである。
実のところ、政治家の世界においても同様である。民主集中制(愚劣の極み)とやらを、いまだに標榜する共産党はともかくも、自民党ですら、その内部に全体主義が蔓延(はびこ)っている。ここでも、上(かみ)のご意向に対して、何も言えない雰囲気が濃厚に現れている。
かつての自民党には、右派から左派まで、さまざまな政治家がいた。当時の社会党の議員よりも左がかった主張をする議員がいたくらいだから、それが党の健全さを支えていたともいえる。多くの派閥が並立することが、一定の制御機能を果たしていた。ところが、いまや、小泉、安倍以来の新自由主義路線の追随者ばかり。反主流をあえて標榜するような派など、存在しない。
何とも情けない状況である。だからこそ、「民主主義の危機」を、繰り返し、強調しておかなければならない。
追記:学術会議会員の任命拒否問題は、いまだに解決を見ないが、任命拒否を計ろうとする政府側の一連の動きを見ていると、文部科学省を飛び越えて、すべて内閣(より具体的には官邸)主導で行われていることがわかる。これも、上に述べてきたことに、そのまま符合する。なお、この問題については、「子午線 学術会議会員任命拒否問題から考えたこと」(『日本文学』2021年4月号)という小文を書いたことがある。ご参照いただけたらと思う(8月27日)。