私の近世の生活風俗の知識の大半は、落語に拠っている。
このところ、毎日が異常な暑さで閉口するが、頭に浮かぶのは、落語で紹介される蜀山人(しょくさんじん)の狂歌である。
庭に水、新(あたら)し畳(だたみ)、伊予簾(いよすだれ)、透綾縮(すきやちぢみ)に色白(いろじろ)の髱(たぼ)
いかにも涼しげな景物が並んでいる。「髱」は、日本髪の後頭部の突き出た部分の名だが、ここは若い女性を意味する。首筋の白さが意識されているのだろう。それゆえ、景物と呼んだりすると叱られるかもしれない。伊予簾は、伊予産の上質な竹の簾、透綾縮は、これも上質な絹の薄織の縮で、さらりとした触感があり、夏のお召しにした。
「庭に水」は、打ち水である。先日、子供たちが大勢で、往来に打ち水をしている光景がテレビに映った。めいめいが、手桶やバケツの水を、柄杓(ひしゃく)にすくって撒(ま)くのだが、まったくさまになっていない。まるで競争でもするかのように、遠くに撒き散らしている。往来を通る人でもいたら、掛かってしまうに違いない。
三代目三遊亭金馬の落語「金明竹(きんめいちく)」には、水の撒きようが悪くて、与太郎が通りがかりの人の着物を濡らしてしまい、叱られる場面が出て来る。もっとも、これは打ち水ではなく、掃除の際に、埃(ほこり)が立たないようにするためだったのだが、柄杓で水を撒くところは同じである。
テレビに映った子供たちは、水の撒きようを教わってはいないらしい。おそらく付き添いの大人たちも、打ち水のやり方を知らないのだろう。
植木屋さんは、柄杓を使わず、植木の葉裏一枚一枚に至るまで、手でしっかりと水やりをするのだという。これも「金明竹」から得た知識である。私など、こちらの方が、はるかに涼しげに感じるのだが、どうだろう。
なお、「金明竹」の前半部は、狂言「骨皮新発意(ほねかわしぼち)」が典拠になっている。だが、この前半部は滅多に演じられない。家にある金馬の録音も、その部分が欠けている。残念なことである。