先日、電車に乗っていたら、ある映像広告が目にとまった。熊川哲也のKバレエカンパニーの「蝶々夫人」の公演の広告である。
おそらく、オペラを下敷きにした演出になるのだろう。それにしても、いま「蝶々夫人」をバレエで上演する意味は、一体どこにあるのだろう。
そう思う理由は、オペラの「蝶々夫人」を、日本人にとって、恥ずべき愚作だと断ずるからである。ただし、プッチーニの音楽そのものは、悪くない。
「蝶々夫人」は、日本を一段低い世界と見ている。欧米社会の目線、言い換えるなら、植民地(?)をまなざすような目線で作られている。だからこそ、現地妻の悲劇を、不自然なものとせずに描いているのだろう。その場合、死を賭して守ろうとする、蝶々さんのプライドに、どんな意味があるのか。そうした現実を告発する意図があったとしても、私にはいやな話だとしか思えない。
もともと、「蝶々夫人」の筋書は、ピエール・ロティの『お菊さん』の影響を大きく受けている。お菊さんのモデルとなったのも、まさしく現地妻の女性である。
「蝶々夫人」の場合が典型になるが、日本人は、日本を舞台にした欧米の作品を、やたらと有り難がるようなところがある。それも実に馬鹿げている。
いま思い返すと、大昔の「音楽」の教科書の鑑賞教材の中に、「ある晴れた日に」があった。教科書では、その背景を、どのように説明していたのか。
「蝶々夫人」の影響で作られた(あるいは下敷きにした)ミュージカルに、「ミス サイゴン」がある。筋書はよく似ている。ベトナム戦争を背景とした作品だが、こうした悲劇は、実際にも少なからずあったに違いない。
わからないのは、こんな愚劣な作品を、なぜ日本でも上演するのだろう。ここでも主人公は自殺するが、救いはどこにも生まれない。この根底にあるアジア蔑視の姿勢は、どれほど高邁な解釈を施そうと、消えることはない。
プッチーニには、中国を舞台としたオペラもある。「トゥーランドット」である。ここにも、リューの自己犠牲が描かれる。プッチーニの私的な思いが、そこに重ねられていたりもする。
だが、「トゥーランドット」には、「蝶々夫人」のような、欧米の優位を前提とするようなまなざしはうかがえない。現実離れした設定ではあるが、それでも中国は大国として捉えられている。「蝶々夫人」の世界の卑小さとは、ずいぶんと隔たりがある。音楽もまた、総じてスケールが大きい。
私はだから、「蝶々夫人」を見たいとは思わない。熊川哲也のKバレエカンパニーの「蝶々夫人」の公演ポスターには、「その女には、命を懸けて守りたいものがあった」と記されている。そこにどんな意味を与えようとしているのだろう。制作する側の立脚点(立ち位置)は、いったいどこにあるのだろう。「その女には、…」と述べている主体は誰なのか、と言い換えてもよい。そんなことを、映像広告を見ながら思った。