研究

四国遍路

投稿日:2023年5月15日 更新日:

私の生まれは北海道旭川市なのだが、明治の後半、曾祖父あたりの頃に、四国から北海道に渡ったらしい。古い戸籍を調べてみると、その本籍が「徳島県勝浦郡小松島町大字中田村(以下は省略)」とあり、いまの徳島県小松島市になる。
四国にルーツがあるからなのか、わが家の宗旨も、弘法大師(空海)を開祖とする真言宗である。それで、法事の際などに、僧が唱える光明真言「オン アボキャベイロシャノウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリ タヤ ウン」は、子どもの時から、聞き覚えている。

四国、弘法大師(空海)といえば、四国遍路に連想が及ぶ。
香川県の善通寺が、弘法大師の誕生地であり、四国一円に由縁(ゆかり)とされる地が少なくないことから、少しずつ遍路の道筋が整備されるようになったらしい。
お遍路さんの菅笠などに「同行二人(どうぎょうににん)」と墨書されているように、弘法大師は、いまも札所(ふだしょ)を巡っており、お遍路さんと行(こう)を共にしている、とする信仰も連綿と続いている。

四国遍路は、はまり込むと癖になるらしい。日常を越えたところで得られる達成感が、二度、三度と遍路を重ねる原動力になっているのだろう。遍路を打ち終えると、新たな人生が始まるような感じがするともいう。

四国遍路では、札所で読経をする。『般若心経』を読むのが通例とされる。その順序は、どの手引き書を見ても、以下のようにある。ただし、そこには疑問もある。

一、開経偈(無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義)
一、懺悔文(我昔所造諸悪業 皆由無始貧瞋痴 従身語意之所生 一切我今皆懺悔)
一、般若心経
一、光明真言
一、回向文(願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道)
一、「南無大師遍照金剛」三遍

右のような順序なのだが、わからないのは、なぜ「開経偈」が、「懺悔文」に先立つのかである。礼拝のありかたから考えるなら、まず懺悔することが先にあり、その上で「開経偈」、さらに経文(『般若心経』)の読誦に続くのが自然だろう。それが逆になっている。どうしてそうなっているのか、その理由がわからない。説明も目にしたことがない。もし、理由をご存じの方がおられるなら、ご教示をお願いしたい。

疑問ついでに、もう一つ記しておく。それは、『般若心経』を読経する際の、経文の切り方である。具体的には、「故」の位置の問題になる。いまの切り方では、「故」は下に付ける。
一例だけ示す。「依般若波羅蜜多故心無罜礙無罜礙故無有恐怖…」とあるところを、「依般若波羅蜜多故、心無罜礙、無罜礙故、無有恐怖…」のように切る。これはおかしい。「依般若波羅蜜多、故心無罜礙、無罜礙、故無有恐怖…」と切るのが、自然なはずだからである。なぜ、そのような切り方になるのか。

「故」は接続詞で、上接する文の内容を、下接する文の原因・理由として示す意味をもつ。訓読すれば、ユヱニであろう。だから、下接する文の頭に置かれる。『漢和辞典』などには、「吾少賤、故多能鄙事(吾れ少(わか)きとき賤(せん)なり。故(ゆゑ)に多く鄙事(ひじ)を能(よ)くす)」(『論語』子罕篇)のような例が見える。上代文献でも同様で、『古事記』では、こうした「故」は、カレと訓んで、やはり下接する文の頭に置かれる。

それではなぜ、『般若心経』では、「故」を上接する文の末尾の置く切り方になるのか。漢文(中国語)の語法では、それが自然なのか。この方面の知識が乏しいので、事情がおわかりの方は、やはりご教示をお願いしたい。

もっとも、日本語の文脈で考えるなら、「故」は、上接する文の末尾、下接する文の頭、そのいずれにも置くことができる。だが、これは漢文(中国語)である。それゆえ、右のような疑問を覚えたような次第である。

さて、四国遍路だが、弘法大師(空海)は、どうしてこれほどまでに、人々に親しまれる存在に(畏敬の念がつよくあるにせよ)なったのか。それも、またわからない。
冒頭に、わが家の宗旨は真言宗だと記したが、私には宗旨に対する思い入れは、まったくない。むしろ、空海のライバルと目された最澄に関心をもつ。

奈良時代末から、平安時代の初めは、日本の仏教界にとって、大きな転換の時期であった。南都の旧仏教を批判する動きが現れるようになる。その機運を生み出したのが、空海と最澄である。もっとも、空海は超越的な立場を崩すことはなかったが、最澄は旧仏教に対する論戦を敢然と挑んでいく。

最澄の思想の根底には、『法華経』の説く平等的衆生観がある。さらにその奥には「一切衆生、悉有仏性(しつうぶっしょう)」(『涅槃経』)の理念がある。
このことが、南都の旧仏教、とりわけ法相宗の唯識教学の理念、――仏性(仏となり得る因子)をもたない闡提(せんだい)の存在を前提とする「五性(姓)各別(ごしょうかくべつ)」の理念との決定的な対立を生むことになる。

法相宗を代表する碩学(せきがく)、会津の徳一(とくいつ)との多年に及ぶ論争、いわゆる三一権実論争(さんいちごんじつろんそう)も、よく知られている。衆生の救済について、『法華経』が三種のありかたを説いているが(三乗、乗とは、済度のための乗り物を意味する)、それを方便(権=仮りの教え)と見て、ただ一つ(一乗)に帰すると捉えるのが最澄の立場であり、三種のありかた(三乗)は方便ではなく、それこそが対象に即した真実の教えと見るべきだとするのが、徳一の立場になる。

すべてが平等であるべきだとする今日の価値観からすると、最澄の平等的衆生観、一乗思想は、たしかに共感を得やすい。だが、五性(姓)各別の理念は、この現実世界、すなわち人間存在の真のありかたに応じているから、この対立の是非は、簡単には決しがたい。

最澄は、南都の旧仏教との対立を経て、新たな戒壇、すなわち天台戒壇(大乗戒壇)の自立を宣言する。最澄の生前には、その設立は果たせなかったが、いずれにしても、最澄は、南都仏教との論争に、その生涯を費やしたともいえる。

一方、空海は、密教の立場を固持し続ける。個々の人間の存在、その一人ひとりの神秘的な体験や修行の実践を通じて、仏の世界と一体化することを、究極の目的とする。拠り所となる経典も、『大日経』『理趣経』などになる。
最澄が、密教を学ぶために、空海に『釈理趣経』(『理趣経』の注釈書)の借用を求めたところ、空海がそれを断ったことが、両者の反目を生む契機となったことは、よく知られている。

このことは、一方で、両者の目指す世界が、いかに異なるものであったのかを示している。いわゆる顕密(顕教と密教)の違いだが、その場合、最澄は社会に開かれた仏教を目指していたともいえる。最澄の東国巡錫(じゅんしゃく)の砌(みぎり)、その説法を聴聞するため、上野国(こうずけのくに)の緑野寺(みどのじ)では九万人、下野国(しもつけのくに)の大慈寺では五万人の聴衆が集まったとされる(『元亨釈書』最澄伝)。後の時代の資料であることを割り引いても、最澄の行動が、衆庶をも含めて、いかに当時の人々の心を動かしていたのかを知ることができる。

鎌倉新仏教と呼ばれる諸宗派は、すべて天台宗からの分かれとしてある。これは、社会に開かれた仏教を目指した最澄の意志が、その底に流れているからともいえる。一方、真言宗からの、そうした分かれは見られない。

ならば、空海は、四国遍路でもそうだが、なぜお大師さんとして、人々に親しまれるようになっていくのか、そこがまったくわからない。
ひょっとすると、密教の神秘主義、それがマジカルな奇跡と結びついて、空海のカリスマ化を推し進めたのかもしれない。ただし、そこには、不気味さも現れている。
『今昔物語集』には、空海が、ライバル僧でもあった、修円を呪詛して殺したとする話が残されている(巻一四・四〇「弘法大師、修円僧都に挑みたる語」)。修円は、興福寺の別当となり、また室生寺の経営にもあたったとされる高僧である。室生寺には、いまも修円廟が残る。それゆえ、事実譚とは思えないのだが、それにしても、こうした話が語られるところに、空海の像(イメージ)がどのようなものとしてあったのかがうかがわれるように思う。

杖立清水(つえたてしみず)の伝承があちこちにあるのも、同じだろう。水の乏しい土地で、弘法大師が水を所望した際、親切に飲ませてくれたところに、杖を立てたら、そこから水が豊かに湧き出るようになった、という話である。一方で、水を惜しんで飲ませてくれなかったところには、呪いを掛けて、そこの水を濁り水に変えてしまったとある。だから、ここにも不気味さが付随している。

四国遍路のお大師さんの姿の中にも、あるいはそうした不気味さを伴うようなありかたが残されているのかもしれない。なお、私には四国遍路の経験はまだない。

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