雑感

胡座(あぐら)が組めない

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子どもの頃から身体が硬い。小学校三年生くらいの時、腰を捻って痛めたので、近所の指圧の先生のところに、祖母に連れられて行ったことがある。そこで、先生に呆(あき)れられた。小学生で、こんなに身体が硬いのはめずらしい、というのである。
背中に手が届かないから、孫の手は必須である。背中で両手の握手のできる知人がいるが、私には奇跡としか思えない。

股関節もきわめて硬い。それで、誇張を混(まじ)えていえば、命の危険を感じたこともある。大学二年生の夏、先輩に連れられて、那須の山中で沢登りをしたことがある。途中までは、快適に登ったのだが、大きな岩場の中途で、立ち往生してしまった。足がかりになる場所に、足が届かないのである。股関節の硬さゆえである。
先輩たちは、あっさりそこを上がったのだが、どうやっても足が届かない。まったくの断崖だから、下に降りることもできない。ロープがあれば引き上げてもらえたのだろうが、その用意もしていなかった。どのくらいの時間が経過したのかは、わからない。横を流れ落ちる瀧の水しぶきを浴びながら、これは救助を要請しないといけないかもしれないと、本気で思った。
しかし、覚悟を決めて、上の手掛かりに届くよう、跳び上がってみた。そのまま下に滑落すれば、大けがは必至である。だが、幸いなことに、うまく手掛かりを摑(つか)むことができた。それで、何とか助かったのだが、もう二度と沢登りはするまいと思った。

そんな股関節ではあったが、それでも胡座(あぐら)を組むことに、まだ大きな支障を感じることはなかった。畳敷きの座敷の宴会などでも、胡座で何とか座布団に座っていられた。もっとも、胡座のままでいるのは、どこか苦痛でもあったから、時折は正座に座り直したりしていた。
これは、世間のありようとは逆であろう。ふつうは、正座がつらいから、胡座に組み直す。だが、私の場合、胡座より正座の方が楽に感じられる。もっとも、正座は足が痺れてしまうから、せいぜい二十分くらいしか出来ない。それで、畳の席では、胡座と正座を交互に繰り返していた。大きな支障を感じることはなかったと記したのは、そのような意味である。

ところが、先日、驚いたことに、胡座がまったく組めなくなっていた。組もうとすると、そのまま後ろにひっくり返る。股関節がますます硬くなってしまったのだろう。
家では、椅子の生活がもっぱらだから、この七~八年、胡座を組む機会などまったくなかった。まことに、呆れ果てるばかりである。

そこから、こんなことを思ったりもした。もし、私のような人間が参禅したいと申し出たら、禅寺ではどう対応するのだろう。胡座が組めないのだから、結跏趺坐(けっかふざ)など、論外である。半跏趺坐(はんかふざ)すらも出来ない。やろうとしても、すぐに足が外(はず)れて、ひっくり返る。紐で縛れば固定できるのかもしれないが、そうなるとこれは拷問である。

座禅とは、自他一如(じたいちにょ)の三昧(さんまい)の境地を目指すものという。只管打坐(しかんたざ)ともいうが、座禅を組むことそれ自体が、快感をもたらすのだという。座禅が習慣化すると、どこでも座禅を組みたくなるらしい。だから座禅マニアも少なくないというのだが、これはある意味で、座禅に淫することでもあるから、むしろ邪道に陥っているようにも思われる。ただ、座禅の体験は、私にはないから、これは何ともいえない。強がりをいえば、座禅など組まなくても、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、日常の一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)の中に、三昧の境地を見出せれば、それでよいのではないかと思うのだが、どうなのだろう。

股関節の硬さについて、もう一つ。しゃがむことも出来なくなってしまった。私の大昔の家のトイレはずっと旧式だったから、当然ながら、便器は和式である。だからしゃがんで用を足した。尾籠な言い方で恐縮ながら、いわゆるウンコ座りである。
ただし、それも二十代前半くらいまでのことで、その後の半世紀近くは、ずっと洋式便器で用を足している。

これも、先日だが、しゃがむ姿勢を取ってみた。ところが、すぐに足首のあたりが痛くなり、数十秒しか辛抱できない。これにもやはり、呆れ果てた。痛いのは足首だが、その根本が股関節の硬さにあるのは明らかである。

しゃがむ姿勢は、東アジア~東南アジアに普遍的な姿勢である。道ばたなどで、人々がしゃがんでいるさまを、映像などでしばしば目にする。大昔のことだが、日本でも、ヒッピー(hippie)がやはりこの姿勢で、道ばたで煙草(たばこ)などを吸っていた。
もっとも、この姿勢は、欧米人には我慢のならないものらしい。以前のブログ「地べたに密着する日本人」でも紹介したが、多田道太郎『しぐさの日本文化』にそのことが出てくる。戦後間もなくの頃、多田が酔っ払って道ばたにしゃがみこんでいたら、大男のG.I.(アメリカ兵)に「立て」と怒鳴られたことの思い出が、そこに記されている。

しゃがむ姿勢は、地べたに密着した姿勢である。農耕民に固有の姿勢といってもよい。欧米人がその姿勢に我慢ならないというのは、かれらの本質が、狩猟民(?)であるところにあるからだろう。
だから、私がしゃがむ姿勢を取れなくなってしまったことは、大袈裟にいえば、地べたとの距離が生じてしまったこと、言い換えるなら、農耕民としての身体性を喪失してしまったことを意味するのかもしれない。

なお、欧米人も、以前はしゃがんで排便していたらしい。画家のロートレックが、フランス北部のどこかの浜辺で、新聞を読みつつ、ゆったりとしゃがんで排便している写真(ロートレックの友人、モーリス・ジョワイヤン撮影)が残されていることからも、それがわかる。

しゃがむついでに、さらに余計な一言。小学生の頃、遠足で鎌倉に行ったことがある。その時、配布された資料に、鎌倉大仏を歌った与謝野晶子の有名な一首、

鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな

が紹介されていた。釈迦牟尼が「しゃかむに」と仮名で記されていたので、私はそこを、「しゃがむには」と勝手に解釈していた。「鎌倉の大仏は御仏だが、しゃがんでいるさまは美男でいらっしゃる」のように理解していたのである。釈迦牟尼という言葉を知らなかっただけのことなのだが、結跏趺坐のその姿勢を、しゃがんだ状態と捉えたのかもしれない。
なお、この歌は、名歌の定評があるのだが、私にはどこがいいのか、まったくわからない。ただの凡作だとしか思えないのだが。

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