今回もまた、英語の学習新聞“the japan times alpha”の記事に触発された内容を記す。
坂本龍一の追悼記事である。
私の音楽の志向は、相当に偏向しており、ほぼ西洋の古典音楽一辺倒である。それについては、このブログ「音楽の嗜好(しこう)」に記したので、繰り返さない。
だから、私は、坂本龍一の音楽には、まったく関心を持っていない。YMOの活動についても、同様である。興味の外にある。
もっとも、坂本が音楽を担当し、出演者(甘粕正彦役だったか)でもあった“The Last Emperor”は、公開時に映画館で見ている。これも、坂本が大きくかかわった映画に、大島渚の「戦場のメリークリスマス」があるが、これは見ていない。ビートたけし(北野武)が大嫌いだからである。この追悼記事には、その英語タイトルも記されていた。“Merry Christmas, Mr.Lawrence”とある。そこから、Lawrenceが、日本軍の捕虜となった、原作者の名であることを、初めて知った。
その程度の関心でしかないのに、なぜここで、坂本龍一の追悼記事を取り上げることにしたのか。それは、別の媒体の追悼記事で、坂本の注意すべき発言を目にしたからである。
そこで、以下、話をそちらに移す。冒頭に「“the japan times alpha”の記事に触発された内容」と記したのは、だから、やや羊頭狗肉気味のところもある。
別の媒体とは、YAHOOの追悼記事のことである。そこに、Webマガジン「女子SPA!」の内容の要約があった。「坂本龍一さんが生前投げかけていた大物芸能人への疑問」と題する記事で、石黒隆之氏の執筆とあった。
そこに、坂本龍一のある本(『少年とアフリカ 音楽と物語、いのちと暴力をめぐる対話』、文藝春秋)の中の、興味深い発言が紹介されていた。
坂本は、2000年代前半の、殺伐とした世相について話している。とりわけ、若い世代の野放図な行動を問題にしている。その上で、本来の権威はもとより、楯突くべき権威すら失われてしまい、その結果、乱暴に悪態をつくことのみが、日常化してしまった現代の負の様相を、お笑いコンビ・ダウンタウンの笑いの中に見る。「大物芸能人への疑問」の「大物芸能人」とは、ダウンタウンのことを指す。さらに、坂本は、その負の様相の先には、「いじめてなにが悪い」から「人を殺してなにが悪い」といった、居直りともいうべき思考が待っている、とも指摘する。さらに、その負の様相を生み出した根源は「僕らの世代」、すなわち全共闘世代であったとして、以下のように述べる。
権威に反発して、ルールがないことはいいことだと戦後最初に言ってたのは、僕らの世代なんだよね。いわゆる全共闘世代。いま僕らの世代が親になり、教師になって、そういう子どもを育ててしまっている。
以上は、石黒氏の記事に従いつつ、それを私なりの言葉に置き換えたものなので、坂本の実際の発言とは、違っているかもしれない。とはいえ、大筋はそのように捉えてよいように思う。
たしかに、若い世代に限らず、社会の規範を無視した、野放図な、あるいは身勝手な振る舞いが、近年、あちこちで横行している。無視するというよりも、端(はな)からそうした規範の存在など念頭にない、というのが正確なところかもしれない。
そうしたありよう、とりわけ若い世代のありようを生み出したのは、なるほど私たちの世代、全共闘世代であったのかもしれない。もちろん、このブログのどこかに記したように、当時の大学闘争は、旧世代が作り上げた非合理かつ抑圧的な体制を批判するための、いわば倫理を問い掛ける闘いだったから、その本質は、野放図な、身勝手な振る舞いの、対極にあったはずである。だが、その闘いが、旧世代によって押さえ込まれてしまった中で、坂本が述べるようなありかた、「ルールがないことはいいことだ」といったような気分が醸成されたことは、否定できないように思う。ならば、若い世代のそうした振る舞いを導き出したのは、私たちの世代であったというのも、あながち間違いとはいえない。
もっとも、社会の規範を自覚しないというのは、民主主義の本質が何であるのかを理解していないためでもある。いわゆる戦後民主主義が、闘争の末に自らが勝ち取った理念ではなく、(敗戦によって)他から与えられた、それゆえ付け焼き刃的なものに過ぎなかったことが、いまの状況を生み出す根本の理由であるように思われる。大学闘争の問い掛けの中心は、民主主義の本質を闡明(せんめい)するところにあったともいえる。その挫折が、自分中心の身勝手な振る舞いを、誰もが恥じることなく演ずるようになった、現在の状況を導き出したといってもよい。
ここで、民主主義とは何かを、簡便に紹介した本があるので、紹介しておく。この本は、以前にも別の文章(「文学部の逆襲・再論」『文学部のリアル、東アジアの人文学』、江藤茂博編、新典社)でも触れたことがあるのだが、子ども向けの絵本である。マンロー・リーフというアメリカ人が書いた(描いた)『みんなの世界』(光吉夏弥訳、岩波のこどもの本)である。
ここに記されているのは、民主主義の本質である。人は一人では生きられないから、必然的に社会を構成する。その社会を維持するためには一定のルールが必要になる。この本は、それを、絵と文でわかりやすく説明している。子ども向けの絵本だからといって、馬鹿にしてはいけない。
もっとも、この本に寄せられた感想、AMAZONなどに寄せられた感想を見ると、ここで批判的に取り上げられている困った人物、たとえばナマケモノとかフワフワさんといった、自己中心的な人物をむしろ擁護しようとする意見が、時折あったりする。この本全体についても、「堅苦しい」「窮屈すぎる」という批判も見られる。要するに、他からの干渉はできるだけ拒み、知らない人とは関わらないという、現在の風潮にみごとに対応する感想が見られるのである。
自己中心的な人物の代表格が、「おらが」くんである。「おらが」は「俺が」である。――自動車を安全に運転するために、一定の規則があるのに、「そんな規則なんかおかまいなしで、じぶんかってな、うんてんをする人」がいたりするが、そういう存在が「おらが」くんである。「おらが」くんは、「めちゃくちゃに スピードを だして 赤しんごうが でても とまりませんし、ひとを ひきころしそうに なったり、けがを させそうに なったりしても へいきです」とある。そんな「おらが」くんは、いまや、あちこちに見られる。
民主主義を維持するためには、一人一人が、社会のルールとどう向きあうかが、絶えず問われるはずである。それゆえ、「ルールがないことはいいことだ」というのは、大きな誤りである。「いじめてなにが悪い」から「人を殺してなにが悪い」といった愚劣な思考が生まれることも、社会のルールがなぜあるのか、といった観点から考えれば、明確に、しかも論理的に否定することができる。繰り返すように、人は社会を構成しないかぎり、生きていけない存在だからである。
以上、坂本龍一の追悼記事に触発されて、あらためて思ったことを記してみた。
“the japan times alpha”の名を出したついでに、追悼記事とはまったく無関係なことを記しておく。追悼記事の載った号の最終面に、興味深い記事があった。オードリー・ヘップバーンの言葉を紹介した記事である。ファンには、よく知られた言葉なのかもしれないが、私はまったく知らなかった。それで、いたく感心した。
Nothing is impossible; the word itself says I'm possible.
何より気が利いているし、人をとても勇気づける言葉だと思う。