雑感

歌手を殺す演出家

投稿日:2023年3月4日 更新日:

久しくオペラを見ていない。おまけにこのコロナ禍である。大学を退職したら、欧州のオペラハウスを見て回ろうと思っていたのだが、夢のまた夢になってしまった。
海外のオペラ情報を得ていた、CS放送のクラシカジャパンも、営業不振で休止になってしまった。クラシック音楽の愛好者が、年寄りばかりになってしまったことが、原因らしい。このことは、何度か書いた。

ところが、ごく最近、これもCS放送のWOWWOWプラスが、オペラを配信していることを知った。しかもMETのオペラ(メトロポリタン・オペラ)である。どうやら月一回の配信らしい。
調べてみると、数年前から、METのオペラを映画館で有料で上映する「METライブ・ビユーイング」なる企画(松竹が運営)があり、すでに上映が終了したものを、順次、WOWWOWプラスで配信しているらしい。映画館での観覧料は3700円とあるから、無料のテレビで見られるのは、有り難い。

1月の「リゴレット」、2月の「ランメルモールのルチア」と続けて見た。歌手は、どちらもすばらしい。さすがに、どの歌手も、METの大舞台で歌うだけの力量をもっている。
ところが、驚いたのは、その演出である。実にひどい。「リゴレット」は、まだ許容範囲の内だが、「ルチア」は、見ていて本気で腹が立った。

二十世紀の終わり頃から、オペラは、演出の時代に入ったと、よく言われる。指揮者や歌手よりも、演出家の存在が前面に現れるようになった。
その理由は、わからなくもない。ウィーン国立歌劇場のような、欧州の大きなオペラハウスは、レパートリー・システムを採用しているから、定番ともいえる作品は、同じ演出を長期間続けるようになる。その作品にもっとも相応しいと、誰もが安心して鑑賞できるような演出である。私のような一見(いちげん)さんの多いオペラハウスでは、そうした演出こそが、無難だからでもある。

しかし、その土地のオペラ愛好者にとっては、指揮者や歌手が変わったとしても、毎度同じ演出を見せられるのでは、退屈してしまう。それで、節目ごとに、新演出がお披露目されることになる。

その新演出だが、無論、傑出したものも少なくない。August Everding、Otto Schenk、Götz Friedrich、Franco Zeffirelliといった演出家の名が、すぐに思い浮かぶ。とりわけZeffirelliの豪華絢爛の舞台には、いつも圧倒される思いがした。音楽との調和も実に見事である。それとは反対に、より抽象化された舞台を志向する演出もあり、Harry Kupferなどが、その代表といえるかもしれない。以前のブログ「昔はよかったか?」では、そのKupfer演出の「ばらの騎士」から受けた感銘を記している。

ところが、新演出は、本来の演出の枠を踏み越えて、徐々に過激になっていく。指揮者や歌手、さらには音楽をも抛(ほう)り出して、自身の自己主張のみを優先する演出家が現れはじめる。クラシカジャパンが休止になる以前、それを通して、海外のオペラもあれこれ見たが、疑問符を付ける演出が増えていることを、苦々しく思ったりもしていた。

これも、以前のブログ「ワーグナーとヒットラー」に記したことだが、2010年8月にバイロイトで見た、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の演出もまた、実にひどいものだった。
この作曲者の曾孫Katharina Wagnerの演出だったが、これほどまでに曾祖父の作を、無意味なものにしてよいのだろうかと、ずいぶんと呆れ果てた。主人公ザックスの体現するドイツ精神を否定したいとする意図があるらしいことだけはわかったものの、先のブログにも記したように、このオペラの言葉と思想(理念)は、不可分なものとして互いに結びついている。そうした制約が絶対なものとしてある以上、それを否定するような演出など、成り立つはずがない。当日の観客も同様に感じたようで、終演後、Katharinaが舞台で挨拶した際には、拍手とともに、大きなブーイングもあちこちから起こった。
Katharinaは、先のKupferの助手を勤めた経験もあるから、その影響をどこかで受けているのかもしれない。だが、それにしても、ひどく呆れるような舞台だった。

そこで、先の「ランメルモールのルチア」である。これまで見たオペラ(テレビ視聴も含めて)の中で、最悪の演出であると、確信をもって断言できる。
この愚劣な演出家の名は、Simon Stoneという。1984年の生まれ。オーストラリアの出身という。「斬新でアイデアにあふれた演出で、現代の演劇シーンをリード」する存在なのだという(「METライブ・ビユーイング」のHPの紹介による)。
この「ルチア」の演出について、番組冒頭で、Stone本人が語っている場面がある。それによると、演出を手掛ける場合、上演される国に設定を移すことがあるという。「ルチア」の場合も、観客が過去の栄華を感じられる場所として、アメリカの衰退した工業地帯、俗にラストベルトと呼ばれるところを選んだ。かつては、自動車産業で発展したが、いまは犯罪や薬物中毒が蔓延する場所である、とも語っている。
登場人物も、それに応じて変化させられている。主人公ルチアの兄エンリーコはマフィアのボスに、ルチアの恋人エドガルドは、小さなスーパーの店員の若者に設定されている。手紙もスマホに置き換えられたりしている。

以上は、原作の読み替えだというのだが、まったく不自然きわまりない。兄エンリーコの策略で、ルチアの結婚相手となるアルトゥーロは、新婚の寝床の上で、ルチアに殺されるのだが、短剣ではなく、銃で撃たれる。しかも、血まみれのままずっと横たわっている。
この演出家は、よほど血まみれなのが好みらしく、ルチアの衣装もまた全体が血だらけである。
舞台上の何もかもがごちゃごちゃとしていて、実に汚(きたな)らしい。

演出家が、重大な考え違いをしているとしか思えない。先のKatharina Wagnerの演出について述べたこととも重なるが、オペラの台本、つまり歌や科白(せりふ)が変えられない以上、その枠組みを壊(こわ)すことなど、絶対にできない。「現代アメリカの生々しいドラマ」に作り替えるというのだが、馬鹿げた発想というほかない。そもそも、ドニゼッティの、あの流れるような調べ、その美しい旋律は、このごちゃごちゃとした汚らしい舞台と、調和するはずがない。この演出家には、ドニゼッティの音楽の本質がわからないのだろう。誤った自己主張があるのみ。実に、実に愚劣である。

もっともひどいのは、「狂乱の場」である。血まみれのルチアが歌う背後で、歌と重ねて、エドガルドとの恋のシーンが、白黒の映像で投影される。これほど、歌手、そして観客を馬鹿にした演出はない。エドガルドへの思いは、そして嘆きは、ルチアの歌の中に十分に込められている。観客は、目と耳を集中させて、ルチアの歌う姿に向きあう。それが、この場面である。その大事な場面を、下劣な映像を重ねることで、すっかり台無しにしてしまっている。これこそ、「歌手を殺す演出家」の、呆れ果てた仕業(しわざ)というべきであろう。

さらに驚いたのは、このひどい舞台に、終演後、まったくブーイングが起こらなかったことである。METの観客の質の低さがうかがえる。つまらない演出にはつまらないと意思表示のできるバイロイトに較べて、このあまりにも素直(?)な観客のありようは、情けないというしかない。

METのオペラの演出は、以前は、保守的な傾向がつよかった。James Levineの時代は、とりわけそうだった。とはいえ、その水準はきわめて高かった。舞台も実に豪華だった。

METは、いまは新たな模索の時代に入っているのかもしれない。「METライブ・ビユーイング」の演目一覧を見ても、「新演出」がずいぶんと目立つ。しかし、この「ルチア」のような舞台が、何の疑問もなく上演されているのだとすれば、その舞台を見たいとは思わない。

私にとっての、「ルチア」の最高の舞台は、1996年の、フィレンツェ五月祭音楽祭の引っ越し公演(東京文化会館)である。ルチアが、Edita Gruberova、エドガルドが、Vincenzo La Scola、指揮が、Zubin Mehtaだった。
「狂乱の場」では、舞台一面に広がる、赤紫のヒースの生い茂る荒野の中をさまようルチアの姿が、いまも忘れがたい。その頭上には、狂気を象徴する丸い月が大きく照り輝いていた。演出は、英国のGraham Vick。なお、La Scolaは、三大テノールの後継者の一人と目されながらも、早死にしてしまった。

無料の放送で見せてもらったのだから、文句をいう筋合いはないのかもしれない。とはいえ、この一文をあえて記したのは、演出家があまりにも優先されるようになってしまったいまの状況に対して、抗議の意志を述べておきたかったからである。
異論、反論があれば、いくらでも議論に応ずる。

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