世代という言葉は、親から子、子から孫へと移行するそれぞれの代、というのが本来の意味で、その期間は、大凡(おおよそ)30年とされる。一方、同時代に生まれ、共通の価値観や思考をもつ人びとを、その言葉で呼ぶ場合もある。新たなところでは、ミレニアル世代、Z世代などというのは、その意味での世代になるだろう。
私の属する団塊の世代も、それにあたる。1947年~1949年前後に生まれた世代である。やや直前の世代まで含めると、大きく大学闘争の世代ととらえることもできる。
この世代は、前後の世代から隔絶している。大学闘争は、それ以前の世代に対する批判であったし、大学闘争が潰えた後(のち)は、後(あと)に続く世代との間に、価値観を共有しえない状況が生み出されたからである。後に続く世代は、団塊の世代がもつ闘争的な姿勢を、できる限り避けようとする意識をつよくもつようになった、ということでもある。
ここにいう闘争的な姿勢とは、政治的な面に限られたことではない。研究の面にもそれが及んでいることが、ここでは重要な意味をもつ。
このブログでも、たびたび記したように、私の世代は、異なる意見の論者と向きあう際には、徹底した議論を行った。学会とは、そうした議論の場であると考えていた。「ブログ、筆者紹介」のところに、「私のように大学闘争を身近に経験した世代の人間は、自分自身の言動の責任を常に自覚している。……異論、反論があれば、いつでも議論に応ずる……」と記したのは、その現れにほかならない。
ところが、こうした姿勢は、後に続く世代にとっては、なかなか受け容れ難いところがあるらしい。そのことを、上野誠氏の言葉から知った。上野氏自身が公刊した書物の中の言葉だから、ここでもあえてお名前を記しておく。上野氏が編者のお一人である論文集『万葉をヨム 方法論の今とこれから』(笠間書院)の「あとがき」である。
上野氏は、その中で、まず「一九六〇年代から七〇年代に学問をはじめた人」は「方法論の異なる他者に大層攻撃的であった」とする。さらに、その年代の人たちは、年少の研究者に、「どちらの方法論の陣営に入るかをめぐって」「踏絵を踏むことを」迫ったとする。その折に感じたいたたまれない記憶が、上野氏の脳裏に、いまもつよく残されている、というのである。
そこで、この論文集では、各執筆者たちの方法論を、あえて「対立的にとらえない」ことにしたという。その上で、この「あとがき」を、次のように結んでいる。
方法論を対立的にとらえない本書には、欠点もある。融和的なのはよいが、凌ぎ合いの緊張感のようなものがないのである。上梓の前から「てぇ、ことは、何でもありなんかい――」というお叱りの言葉が聞こえてきそうである。そういわれたら、私はこう答えようと思う。「各執筆者の今後の論文を読んで下さい」と。
これは、あきらかに私たちの世代への批判であるに違いない。徹底的な議論を重ねることに対する、あきらかな拒否反応と見てよい。それが、対立を避け、融和を重視する姿勢を生むのだろう。もちろん、上野氏は、融和のもたらす「欠点」もきちんと指摘している。とはいえ、あくまでも対立を生じさせるべきではないとする姿勢は、一貫している。
この上野氏の「あとがき」の言葉は、ずっと頭の中から消えずにいたのだが、過日、ある学会の会議の席上で、これと類似の意味をもつ発言を耳にした。「団塊の世代は、とかく「昔はよかった」と言いたがる」とする、団塊の世代に対する批判である。
団塊の世代は、後の世代が、徹底した議論を行うことを避けようとする意識をもつことに不満をもち、その際に「昔はよかった」と発言したりする。それゆえ、「「昔はよかった」と言いたがる」とは、上野氏の言葉と同じく、まさしく団塊の世代に対する批判になる。
なるほど、私もこのブログで、それに近い発言をしている。「昔はよかったか?」と題する小文も記しているが、こちらはここでの話題とは直接には関係しない。
だが、いかに批判を受けようとも、研究の根幹は、徹底した議論を尽くすところにあるように思う。学会の研究発表の場などでも、おかしなものをおかしいと指摘できないような(むしろ指摘しないような)雰囲気がいまや濃厚だが、それは誤っている。研究の進展は、それでは望めない。おかしいと指摘することは、パワハラとはまったく違う。その指摘に異論、反論があるなら、さらに議論をすればよいだけのことである。
上野氏が述べているように、一人一人がそれぞれの研究を粛々と進めればよい、という立場もあるには違いない。人文学の研究とは、つまるところは、個人的な営為にほかならないからである。一人一人が、それぞれの文体を確立することこそが、人文学の研究の目的でもある。その意味では、上野氏の言葉は、正論ともいえる。
だが、個人の内部に自足するだけでは、真の意味での文体の確立には到らない。他者の存在がなければ、個の自立もまたありえないからである。
さらにまた、個の内部に自足するのみでは、人文学が置かれている現在の危機的な状況を、ますます悪い方向に向かわせる結果しかもたらさない。学会のような場に意味があるとするなら、研究者の一人一人が、互いの議論を深めた上で、その成果を大きなうねりとして生み出していく可能性が、そこにあるからだろう。そうでなければ、いまの危機的な状況に抗うすべは、なかなか見出せないように思う。
もとより、それは、一人一人の研究者の、個としてのありかたの否定であってはならない。このことは、幾重にも確認しておく必要がある。上野氏の発言の意図もそこにあるだろう。
以上に述べたことは、これも以前のブログ「人文学の危機をめぐって・再論①、②」に記したこととも大きく重なる。併せ読んでいただけるなら、幸いである。
なお、ここにいう文体とは、一人一人の個が世界と向き合う、その向き合い方を意味する。その向き合い方は、個別なものとして現れるが、それが一定の普遍性をもちうるかどうかが、その価値を判断する際の基準になる。このことを注記しておく。