知人のNさんから、長野の信州新町の有島生馬記念館に立ち寄った、というメールをもらった。有島三兄弟の資料がいろいろと保存されているという。Nさんのご主人は、三兄弟の一人、里見弴(さとみ・とん)に私淑しているので、その墨蹟にいたく感心していた、とも記してあった。
そこで、突然、里見弴の「椿」に、連想が及んだ。文庫本でも、せいぜい数頁程度の小編である。三十過ぎの独身の女と、その姪の二十歳(はたち)の娘が、床を並べて寝ていると、床の間の青磁の瓶に生けておいた真っ赤な椿の花が、突然、枕元に「パサツ」と落ちる。そこからの、二人のやりとりを描いただけの小説である。
この小説を読むたびに、これこそが、描写の極致、文章の力だけで、完璧な世界を作りだしている作品だと、感嘆する。こういう小説に、下手な分析を加えたところで、まったく意味がない。ただただ、読み味わうだけである。横光利一の用語とは異なるが、「純粋小説」と、つい呼びたくなる。
「椿」を、いつ読んだのか。中学生の頃、家にあった、河出書房版「現代日本小説大系」の一冊の中で読んだように記憶している。「銀二郎の片腕」も収められていて、それもつよく印象に残っている。
「現代日本小説大系」は、作家別ではなく、文学史的な観点によって編纂された、かなり風変わりな全集で、意外なことに、近代文学研究者にも知る人が少ない。このブログでも、どこかで取り上げたいと思っている。
里見弴が、希代の名文家であることは、広く知られている。川端康成の『新文章讀本』では、「椿」の大半を引用した上で、 弴を泉鏡花(「南地心中」の一節を例示している)と並べて、次のように評している。
いずれも(鏡花も弴の作も)近代屈指の名文章、一字一句、さながら生きて躍るの感が深い。豊富なる語彙と華麗なる文体を駆使している。いわば両氏の如きは、その言葉が独り生きて走り、作者はむしろその後を追うの感さえ抱かしめるものがあるのである。
これは、そのまま頷(うなず)くしかない。川端は、別の箇所でも、「里見氏の才能は、氏一人に許された天恵であって、余人が行えば、時として地底にも転落しそうな危険を、しかし里見氏の天分が鮮やかに乗り越え、とびすぎて行くのである」とも述べている。
なるほど「天恵」「天分」には違いないが、川端のあたりまではやはり、文章道のようなものがあったのではあるまいか。川端の『新文章讀本』は、文章こそが小説の表現の死命を制するとする立場を大前提に、文語から自立した小説の新たな文体を、作家たちが、いかに模索しつつ、生み出していったのかを、具体例とともに、克明に論じた本である。昭和二十五年の刊行で、もっとも新しい作家として、太宰治(太宰の情死は、その前々年)が取り上げられている。
川端は、作家は、独自の文章・文体を持たなければならない、とも説いている。現代の作家にも、そうした意識が受け継がれているのかどうか、そのあたりは、まことに心許ないというしかない。下手な作文の延長としか思えない例にも、しばしばお目に掛かるからである。
そもそも、「椿」のような作品を、いまの若い読者はどう見るのだろう。聞いてみたいような気もする。