辞書の説明が当てにならないことについて、もう少し書く。これも、古語辞典のことになる。
古語辞典の語義の説明は、その言葉が現代語の何にあたるのかを示す。多くの場合、①○○、②△△、③××、④□□……、のように、その言葉の語義を、対応する現代語の語義に即して説明していく。利用する側は、「ああ、これは①の意味だ」「こちらは③の意味だ」というように、辞書の説明を見て納得することになる。
だが、よく考えると、これはおかしい。辞書の①、②、③……の区分は、あくまでも、こちら側が設定した目安に過ぎない。その区分は、現代の私たちの設定した基準であり、その言葉を、私たちが持ち合わせている抽(ひ)き出しのどこに入れるかを示す物差しに過ぎないからである。①、②、③……と区分され、それぞれがかけ離れているように見えても、もとは一つの言葉である。そこが、肝要である。
言葉は、基本的に多義的である。それゆえ、古語の語義も、徐々に分化していく。それを、現代の目安に合わせて(あるいは、あらかじめ用意された抽き出しに合わせて)示そうとするのが、辞書の役割なのだろうが、問題は、①、②、③……のような区分が、明確に立てられるのかどうか、である。繰り返すように、もとは一つの言葉である。ならば、なぜそうした区別が生ずるのかを、その言葉の原義からたどって、考えるのでなければならない。
その言葉の原義は、どのようなものであったのか。それが、時間を経過する中で、語義をどのように変化させていくのか。それを考えるためには、その言葉を支える世界像がいかなるものであったのかを知らなければならない。語義の変化は、時間の経過(歴史性)とも不可分だから、それを支える世界像の変化に及ぶ場合もあるに違いない。
それゆえ、辞書は、そうした変化のありようを、どこかできちんと説明するのでなければならない。私は、そうした説明を語誌と呼ぶ。語史に近いが、それよりは、概念がやや広い。
ところが、古語辞典、とりわけ小型の古語辞典は、そうした語誌(あるいは語史)については、ほとんど顧慮しない。①、②、③……の区分を示すだけである。例外は、『岩波 古語辞典』だけであろう。ただ、それとても、紙面の制約ゆえか、要点の記述にとどまっているのは、惜しまれる。
私が、『万葉語誌』(筑摩選書)のような書物を、賛同者とともに刊行した理由は、語誌(あるいは語史)こそが、言葉を考える際、もっとも重要だと考えたからである。ただし、『万葉集』の、ごく限られた言葉を扱ったに過ぎないから、あまり大きなことはいえない。
とはいえ、古語辞典を利用する際には、なぜ①、②、③……のような区別が生ずるのかを、その原義から徹底的に考えていく必要がある。「ああ、これは①の意味だ」で、納得してはならない。そこに、辞書を「引く」ことの、真の意味があると考える。