ずいぶん前に、「大人の知恵」と題する一文を載せた。自衛隊の存在をめぐる昨今の改憲論に対して、自衛隊の存在は明白な憲法違反だが、それを違反でないと言いくるめる判断こそが「大人の知恵」にほかならず、それが自衛隊を正規の軍隊としてしまった場合に生ずる、大きな危険への制約になっている、という趣旨のことをそこで述べた。首相の解散権の根拠を、「天皇の国事行為」を定めた憲法第七条に求めるのも、相当な無理筋だが、しかしそれも「大人の知恵」にほかならない、ということもあわせて述べた。
裁判員裁判という制度がある。諸外国の陪審員制度にならったもののようだが、この導入時から、私はこれに反対する意見をもっていた。その見方は、いまも変わらない。
その理由の一つは、裁判における判断の根拠となる部分に、上に述べた「大人の知恵」が働く場合があり、そこに何らかの政治的な(俗な意味での「政治的」だが)判断が機能していると思われる事例が見られるからである。
たまたま、今日のYAHOOのニュースを見ていたら、ある交通事故について、次のような記事が出ていた。
一般道を、時速約194キロで走行して、死亡事故を起こした元少年に対して、被害者遺族や警察が「危険運転致死罪」での起訴を求めたにもかかわらず、検察は単なる「過失運転致死」の罪で起訴したため、遺族が記者会見で、その不当を訴えたとする記事である。
これは起訴段階でのことだが、実際の裁判例を見ても、「危険運転致死罪」の構成要件の認定はやたらと厳格である。素朴な印象を述べれば、「危険運転致死罪」の罪をわざわざ設けた理由がわからなくなるほどに、裁判所の判断には疑問符がつく場合が多い。だから、上記の事件でも、検察は「危険運転致死罪」での立件を見送ったのだろう。
一方、これとは対照的に、暴力団の取り締まりは、実にいい加減である。暴力団員を逮捕するためには、ありとあらゆる法律を、利用できるかぎり利用している。法の拡大解釈や逸脱、一般人にそれを適用したらただちに問題となるに違いないような法の運用が行われている。実際の裁判の場でも、その拡大解釈が通用しているから、ここでも疑問符がつく。
「危険運転致死罪」と暴力団の逮捕、ここでの法の運用は、はたして「大人の知恵」なのかどうか。前者については異論が多く見られるが、後者については、ごく一部を除いて、誰も文句はいわない。しかし、この二つを並べると、あきらかにおかしい。
ここにも、だから、何らかの政治的な判断、誰が下すのかはわからないが、そうした判断がどこかで働いているのだろう。
法の運用は、基本的に、こうしたあやしげな判断を伴うから、実際の裁判の場においては、それで世渡りしている裁判官ならともかく、一般国民をそこに関与させることにはかなり問題がある。
実際に裁判員に選ばれる際には、適不適を判断する面談のようなものがあるらしいが、もし私が選ばれたら、上に記したようなことを、面談する相手(裁判官だろうか)に問い質(ただ)すつもりである。相手は一体、何と答えるのだろう。それを聞いてみたいので、裁判員に選ばれるのをひそかに期待しているのだが、そうした通知はまったく来ない。ひょっとすると、私がこういう臍(へそ)曲がりであることが知られていて、初手から対象外とされているのかもしれないが、それは私のただの買い被り(自分自身での)というものだろう。
いずれにしても、法の運用には、「大人の知恵」として認めてよいもの、悪いものがあるように思う。そこが実に難しい。