わが家の狭い庭の片隅に、鉢植えが並んでいる。
私は不精者だから、水やりなどはまずしない。すべて家内がやっている。時折、それで叱られる。その鉢植えの中に、万葉植物が三種ある。ヌバタマ(ヒオウギ)、橘、浜木綿(はまゆう)である。以下、それについて記してみよう。研究に分類はするが、内容は雑感に近い。
①ヌバタマ(ヒオウギ)
少し前から、ヌバタマ(ヒオウギ)が繰り返し咲いている。オレンジ色の美しい花である。括弧内に記したヒオウギは、漢字で書けば檜扇で、剣状の葉が扇状に密生するところから生じた名という。花の咲いた後(あと)には、俵状の実を結ぶ。その中に、真っ黒で光沢のある小さな丸い種子がたくさん入っている。ヌバタマは、真っ黒なその種子を意識した名である。烏扇(からすおうぎ)とも呼ばれるが、それもまた種子の色を意識した名だろう。
ヌバタマは、『万葉集』では、「ぬばたまの○○」のように、枕詞としてのみ現れる。「夜」「夜霧」「夜渡る月」など、「夜」に関係する言葉を導くのが通例である。「黒髪」「黒馬」に接続することもある。「ぬばたまの」は、黒色のイメージを喚起・強調する枕詞であるに違いない。
ヌバタマについて、『釈日本紀』所引『日本紀私記』に、「烏扇之実也。其色黒。人喩之」とある。『万葉集』には、ヌバタマを「夜干玉」「野干玉」と文字表記する例もある。「夜干」「野干」は、ヤカン(射干)であろう。『和名抄』「射干」には「本草云、射干、一名烏扇」とあり、ここからも『万葉集』のヌバタマが烏扇であることが確かめられる。
一方、ヌバタマを「烏玉(珠)」「黒玉」と表記した例もある。黒い玉ゆえヌバタマと呼んだことが、そこからわかる。
佐竹昭広氏は、ヌバが黒色を意味するとし、さらにヌマ(沼)とも関連させて、次のように説いている。ヌマ(沼)より転じた語が、今なお《泥》のような意味で使用されるが、《泥》もしくはその周辺の言葉は、つねに視覚上の印象として、黒ずんだ感じを与える(佐竹昭広「古代日本語における色名の性格」『萬葉集抜書』、岩波書店)。これはなかなかの卓見であろう。
以前、この佐竹説をもとに、枕詞「ぬばたまの」が「夜」に接続する理由を考えたことがある。夜の深々とした闇、時として身体に纏(まと)わりつくかのような質感、――ヌマ(沼)に通ずるようなその質感を捉えたのが、「ぬばたまの―夜」という言葉なのではないか、ということをそこで指摘した。「ぬばたまの―黒髪」の場合も、視覚や触覚を通じた髪の質感、そこに生ずる官能に訴えかけるような喚起力が、その言葉にはあるように思う(多田一臣「万葉びとの夜」『古代文学表現史論』、東京大学出版会)。
ヌバタマの種子は、毎年、たくさん採れる。以前は、人に分けたりしていたのだが、コロナ禍のこの現状では、そうした機会もなくなってしまった。
②橘
ミカン科の常緑低木の橘である。『古事記』「垂仁記」で、常世国(とこよのくに)に赴いたタヂマモリが将来したトキジクノカクノコノミ(『日本書紀』「垂仁紀」では「非時香果」の文字が宛てられている。永遠不変に香気を放つ果実の意だろう)が、橘の実であったとされる。そこには、常世の堅固・盤石の理想性が重ねられている。この実を食せば、不老不死が約束されるということらしい。タヂマモリは、垂仁天皇の命を受けて、常世に渡ったのだが、戻って来た時には、天皇は崩御していた。そこで、タヂマモリは、将来した橘、実と葉をつけたまま枝ながら輪状にしたもの、実を串に刺したものを、半分は天皇の陵墓に、残り半分は皇后に献じた後(のち)、陵墓の前で、おらび声(叫び声)を挙げて、そのまま死んだとある。垂仁天皇陵(奈良市尼ヶ辻西町)の周壕(しゅうごう)の南東部にある小島は、そのタヂマモリの墓と伝えられている。
橘は、後に内裏の正殿の前に桜とともに植えられる。いわゆる左近の桜、右近の橘である。なお、左近の桜だが、当初は梅が植えられていた。梅は、大陸から伝来した植物で、奈良時代以降、貴族の庭園に観賞用として植えられた。仁明朝になり、文化の国風化が進む中、正殿の前の梅は、桜に変えられた。左近の桜、右近の橘は、そこから連綿と続くことになる。余計なことながら、左近、右近は、正殿の側から見ての左右になる。
ずいぶん以前、京都に出掛けた折、大覚寺を訪れたことがある。大覚寺は、南北朝時代、御所が置かれ、宸殿(しんでん、重要文化財)がいまもその名残を残す(ただし、応仁の乱などで、当時の建物は焼失し、いまの宸殿は、東福門院(徳川秀忠の娘、後水尾天皇の中宮)の旧殿を移築したものという)。その宸殿の前には、御所らしく、左近の梅(桜ではなく、ここはなぜか古来の梅である。復古というべきだが、梅である理由は不明)、右近の橘が植えられている。
訪れたのは、秋のいつであったか、橘がたくさん実をつけていた。地上にもずいぶんと落ちていた。係の人の許しを得て、落ちている実をいくつかもらって来た。
東京に戻ってから、食べてみた。橘は、酸味がつよくて食べられないというが、甘くはないものの、爽やかな味で、むしろおいしく頂戴した。ただし、種がやたらと多いのには閉口した。
その種を庭に植えてみた。芽が出たところで鉢に移した。ところが、何年経っても、なかなか大きくならない。橘は、本来、接(つ)ぎ木で育てるものらしく、実生(みしょう)は生長が遅いらしい。それでも、小さいなりに、葉だけは勢いよくつけてくれた。その後、また何年か経って、やっと花が咲くようになった。ところが、困ったことが生じた。アゲハが卵を産みつけ、孵(かえ)った幼虫が、葉をすっかり食い荒らして、丸坊主にしてしまう。最初は、幼虫を捕まえては、踏み潰していた。踏み潰した途端、橘のつよい芳香がフッとあたりに漂って、これには驚いた。
それにしても、アゲハはどうやって狭い庭の片隅の橘を見つけるのか。これも不思議といえば不思議である。
それ以後、アゲハが可哀想になって、踏み潰すのはやめにした。さらには、アゲハが幼虫からサナギになるのを観察するようになった。夜に羽化して蝶になるらしく、その様子は見ていない。しかし、それと引き換えに、橘は丸坊主になってしまうから、今度は花が咲かない。ここ何年かは、その状態を繰り返している。だから、実がなることなど、当分はありえない。
とはいえ、わが家の橘は、歴とした御所の橘の子孫である。それは自慢してよいことなのだろう。
③浜木綿(はまゆう)
女優の浜木綿子(はま・ゆうこ)を、家ではふざけて、「はま・もめんこ」と呼んだりしていた。その浜木綿(はまゆう)である。これを万葉植物と呼んでよいのかどうか。なぜなら、浜木綿は、『万葉集』の次の一首にしか見えない、きわめて特異な植物だからである。
み熊野(くまの)の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす心は思へど直(ただ)に逢(あ)はぬかも(巻四・四九六)
訳:み熊野の浦の浜木綿の葉が幾重にも重なっているように、心では幾重にも思うのだが、直接には逢えないことだ。
柿本人麻呂の歌である。四首一連の歌の中の一首で、紀伊路(きじ)の旅先で詠まれた歌らしい。家郷に残した妻への恋歌だろう。古来、名歌のほまれの高い歌であり、一首だけの例ではあるが、浜木綿を万葉植物と称してもよいように思う。
浜木綿は、ヒガンバナ科の常緑の多年草で、ハマオモトが正式な和名である。ここに「み熊野の浦」とあるように、暖地の海岸に群生する。白い糸状の花が、祭事に用いる木綿垂(ゆうしで)に似るところから、浜木綿の名がある。木綿垂は、細(ほそ)く断ち割った楮(こうぞ)の繊維を、水で白く晒(さら)し、糸状にして、玉串などに垂らしたものいう。花には、独特の芳香がある。
肉厚の帯状の葉は、旺盛に幾重にも繁る。この歌は、そのさまを繰り返される妻への思いの比喩(「百重なす」)にしている。
わが家の浜木綿は、研究仲間のK氏から頂いた。これも、ずいぶん昔の話である。生長するに従って、鉢は徐々に大きくしたが、露地植えにはしなかった。暖地の植物で、冬の寒さに負けるのを恐れたからである。花は何度か咲かせてくれたが、鉢で生育するのは、やはり限度があるらしい。冬にビニールで覆えば、露地植えも可能なのだろうが、狭い庭ではそれも難しい。
東京で、この浜木綿が群生している場所がある。三田の慶應大学の構内である。どこの校舎かはわからないが、その前庭で見事に花を咲かせているのを見たことがある。記憶違いでなければ、道路に面した正門のあたりでも見たように思う。これだけ群生していると、冬の寒さにも抵抗できるのかもしれない。
もっとも、慶應大学の出身者の中にも、その浜木綿を知らない者がいたりする。それで、驚いたことがある。だが、なぜ、ここに浜木綿がたくさん植えられているのか。理由があるに違いないが、それはわからない。