お茶を飲むのが好きである。「淹(い)れる」と記したように、煎茶である。
ところが、昨今、そのお茶の売り上げが減少傾向にあるという。若い世代の人たちが、お茶を飲まなくなったことが、原因らしい。しかも、彼らにとってのお茶とは、ペットボトル入りのものを意味するらしい。「伊右衛門」などという商品は、テレビのCMに、藤井聡太を起用したりしているから、かなりの売れ行きなのだろう。
だが、ペットボトルのお茶など、およそ飲めたものではない。お茶には違いないのだろうが、私にはまったくの紛(まが)いものとしか思えない。これをお茶の味だと思われては困る。
若い世代の人たちの中には、お茶の淹れ方を知らない人も少なくない。以前、特に名を秘す某所に通っていた頃、若い女性が、お茶を淹れてくれるのだが、まったく味がしない。よく見ると、淹れ方があまりにひどい。急須に入れた茶葉を蒸らすこともなく、ポットから直(じか)にお湯を注ぎ、さほど時間を置くことなく、そのまま茶碗に移し入れている。お茶の色はそれなりにあるものの、味はまったくしない。
おそらく、どの客にもそうやってお茶を淹れているのだろう。客が不味(まず)いなどというはずはないから、淹れる当人もそれでよいと思っているのだろう。それ以前に、ちゃんと淹れたお茶を飲んだことがないに違いない。
わが家では、藤枝のお茶屋さん(小野製茶という)から、ずっとお茶を取り寄せている。もう四十年以上になる。だから、静岡茶である。
お茶は、産地と水との相性が大事らしい。ずいぶん以前、お茶なら宇治茶が日本一だろうと、一保堂(いっぽどう)のお茶を買い求めて飲んだことがある。淹れ方をあれこれ工夫しても、少しもおいしくない。かなり値段の高いお茶でも試したが、藤枝のお茶にはやはり劣る。
そこで思ったのは、水との相性ではないか、ということである。東京の水道の水系も、場所によって違いがあるようだが、宇治のお茶は、京の水で淹れれば、それなりの味がするのだろう。しかし、わが家の水にはまったくあわない。狭山茶でも試したことがあるが、やはり駄目である。これも水との相性らしい。宇治茶でも、狭山茶でも、それに適した水があるのだろう。
その藤枝のお茶を、信濃追分の山荘で淹れると、東京よりさらにおいしい。軽井沢の町営水道だが、よほどその水との相性がよいとみえる。コーヒーを淹れても、山荘の方がずっとおいしい。水質の違いはよくわからないが、これには驚いている。
これから先、お茶はすべてペットボトルになってしまうのだろうか。ふつうのお茶が、限られた人の高級な嗜好品になってしまうのは、大いに困る。