音楽の嗜好としたが、これはひょっとすると、芸術一般に通ずる問題なのかもしれない。
ただし、ここで述べたいのは、音楽に寄せる私の個人的な嗜好についてである。
私の場合、その嗜好は西洋の古典音楽の世界、いわゆるクラシック音楽の世界に向かうことになる。
クラシック音楽に目覚めたのは、突然のことといってよい。小学生の頃は、音楽には何の関心ももっていなかった。中学一年のある日、家にあった、ワインガルトナー指揮の第九のSPレコードを聴いて、身震いするような感動を覚えたのが、その切っ掛けである。なぜ、そのレコードを聴こうと思ったのかはわからない。そこから、家にあったSPレコードをあれこれ聴くようになった。
当時はすでにLPの時代だったから、親に頼んでLPのプレーヤーを買ってもらった。お小遣いを貯めて、下北沢にあったムラカミ楽器店(いまはない)に足繁く通い、さまざまなレコードを買い求めた。定価の一割引きで売ってくれたように思う。友人を誘って東京交響楽団の定期会員になったのも、その頃のことである。定期演奏会を、Subscription Concertと呼ぶことを、そこで初めて知った。直訳すれば、予約演奏会になるのだろう。subscriptionだが、いまやサブスクという若者言葉に化けているらしい。おやおやである。音楽の先生から、東急ゴールデンコンサートの入場券をもらって、これも友人と、文京公会堂に足繁く通ったのも、やはりその頃である。
それですっかり、クラシック音楽にのめり込むようになったのだが、結果として、日本の歌謡曲、とりわけ演歌と呼ばれるものを、実に気持ち悪く感じるようになった。
美空ひばりは歌がうまいと、指揮者の岩城宏之が語っているのをどこかで目にして、驚き呆れたことをいまも思い出す。美空ひばりは、いま聴いてもやはり気持ちが悪い。音をわざとずらす、ポルタメント過剰ともいうべき歌いぶり、声音(こわね)を変えるあざとさを、歌のうまさであると本人が勘違いしているらしいことが、私には堪えられない。私の理想の歌手は、いまもってルチア・ポップである。
高校に入ってからだと思うが、千昌夫の「星影のワルツ」という曲が流行したことがある。これも噴飯物だと思った。なぜワルツと名のっているのか。三拍子なら、ワルツと呼んでいいのか。これでは楽隊のジンタそのものではないか。――当時は、R・シュトラウスの「ばらの騎士」のワルツなどに心酔していたのだから、いま考えてもそう思うのはもっともなことだと思う。
しかし、ここで述べたいのは、そうしたことではない。
実のところ、日本の古典音楽は、むしろ好んで聴いている。そこが、実に不思議である。家には、長唄のSPレコードもあった。その中に、六世芳村伊十郎の「勧進帳」があった。戦前に活躍した大名人である。音吐朗々、謡い掛かりの格調の高さには、心底ほれぼれとした。後に、能の世界に関心をもつ切っ掛けは、あるいはこのSPにあったのかもしれない。「瀧流し」の演奏の見事さも驚くばかり。これによって、日本の古典音楽の素晴らしさに目を開かせてもらったように思っている。
私の前後の世代では、ジャズに傾倒する者も多くいた。渋谷にもジャズ喫茶(SWINGといったか?)があって、友人の中には、そこに入り浸(びた)る者もいたりした。ところが、ジャズはまったく私の嗜好に合わない。聴いてみても、どこがいいのかまったくわからない。むしろ苛立(いらだ)ってくる。
当時、NHKのFM放送に「世界の民族音楽」という番組があった。民族音楽研究の第一人者だった小泉文夫氏の企画による、文字どおり世界の民族音楽を紹介する番組である。聴取者の熱心な支持があったらしく、ずいぶんと長く続いたはずである。
だが、この民族音楽も私の嗜好にはまったく合わない。声ばかりのアフリカの音楽など、ジャズと同様、聴いているとすぐに苛立ってくる。これも当時、非常勤先の某大学で、たまたま小泉氏の研究仲間である音楽学者の何樫(なにがし)先生と同席したことがある。まだ私が若かったためもあるが、不躾(ぶしつけ)にも、何樫先生にこんな質問をした。「先生方は、本当にこういう民族音楽を楽しいと思って聴いていらっしゃるんですか」と。何樫先生も当惑されたに違いない。曖昧(あいまい)なお返事しかいただけなかったように思う。
いま思うに、どんな音楽を好み好まないのかは、まったくその人の嗜好によるのだろう。ただし、その嗜好がどのようにして形成されるのかはまったくわからない。人それぞれなのだろう。嗜好である以上、それを人に強制することもできないはずである。その点で、いまの学校の音楽教育には不満がある。嫌いな音楽を無理に聴かされるのは厭である。
前にも書いたが、クラシカジャパンの放映が休止したことで、大いに困却している。老後の楽しみの一つが確実に失われたからである。とはいえ、その復活はまず無理なのだろう。クラシック音楽の聴き手が確実に減っているからである。